ロパートキナ。ダンサーの引退時期
ウリヤーナ・ロパートキナというバレエダンサーを最近まで全く知らなかった。1973年生まれ、ウクライナ(クリミアの小さな町ケルチ)出身のマリインスキー・バレエ団(ロシア)のプリンシパルである。先月、本人のウェブサイトで「職業上の怪我のため引退」と発表した。43歳での引退。
ロパートキナに出会ったのは、『ロパートキナ 孤高の白鳥』(2014年)というドキュメンタリーだった。たまたまNetflixの新着コンテンツを見ていてみつけた。彼女の名前も知らず、どんな映画かも知らず見始めて驚いた。これは相当なダンサーではないか、映画が進むうちに確信は高まった。わたしが最近のダンサーで名前を知るのは、せいぜいシルヴィ・ギエムまで。確かにバレエに関心があったとは言えない。しかしGoogleで(カタカナで)「ロパートキナ」と検索して出てくるのは、『孤高の白鳥』に関するものがほとんどだった。日本ではそれほど知られていなかったのだろうか、と思った。(日本語版ウィキペディアにはなかった)
次に「ロパートキナ シルヴィ・ギエム」で検索すると、チャコット(バレエ用品)のサイトや個人のブログなどで、ロパートキナへの熱い賞賛の言葉がたくさん出てきたので、知る人ぞ知るダンサーなのだなとわかった。そのうちの一つで紹介されていた『二十世紀の10大バレエダンサー』(村山久美子著、2013年)を読んでみることにした。10人の中にロパートキナが入っていたからだ。本のトップバッターでロパートキナは紹介され、表紙もまた彼女だった(瀕死の白鳥の写真)。
ロパートキナの章の冒頭で、著者はモスクワの芸術学者の言葉を引用している。「古典的優雅さと現代的スピード感をもつ稀有のバレリーナ」。この言葉は、わたしが映画で見たこのダンサーの印象、特徴にピタリとはまる。特にあとの方、「現代的スピード感をもつ」という紹介は特徴を捉えた優れた表現だと思う。いや、そうではないかもしれない。古典的優雅さと合わせもつ、その現代的スピード感がすごいのかもしれない。
映画『孤高の白鳥』の中で引用されていたいくつかのバレエのシーンは、どれも目を見張るもので、一つ一つの作品の踊りのレベルの高さと、そのバラエティの広さ(それをどれも最高の見せ方で演じている)に大きな衝撃を受けた。こんなことが可能なのか、こんな人がいるものなのか。シルヴィ・ギエムはここ2、30年の間の最高の踊り手では、と思っていたが、ロパートキナは総合的に見たときそれを超えているかもしれない、と感じた。彼女の踊りを見たあとでは、どんなダンサーの踊りも、ちょっとした小さな欠点が見えるような気がしてくる。
ロパートキナは身長が175cm(靴のサイズ26.5cm)と主役を踊る女性ダンサーとしてはかなり背が高く大柄。長い手足にスレンダーな身体、髪はショートカット、知性的な話ぶりで落ち着いた優しい物腰をしている。ティーンエイジャーの娘が一人いるそうだ。『孤高の白鳥』はバレエ作品の引用とレッスン風景、彼女のインタビュー、周囲にいるバレエ関係者の彼女についての発言などで構成されている。『孤高の白鳥』はフランス人プロデューサー、映画監督のMarlène Ionesco(女性)による作品だが、よくまとまっており、このダンサーの理解にとても役立った。
このように背の高い女性ダンサーは、古典バレエの名作と言われる『眠れる森の美女』や『ジゼル』『白鳥の湖』などでお姫様役はできるのか、と思ったが、所属していたマリインスキー・バレエ団でプリンシパルとして、すべて踊っている。ちなみにマリインスキー・バレエ団はサンクトペテルブルクにあるマリインスキー劇場付きのバレエ団で、古くはアンナ・アブロワ、ニジンスキー、ジョージ・バランシン、近年ではヌレエフやバリシニコフが所属していたことで知られる名門バレエ団。
ロパートキナの古典は高いレベルの技術と、主役として物語と舞台全体を自分のもとにおさめ、観客をひきつける圧倒的な吸引力が印象的だ。といってもパワーを振りまくタイプの踊り手ではなく、統制のとれた静けさを感じさせる身のこなしが特徴だ。役によって顔つきは変わるものの、「顔で踊る」タイプでもない。動きに余分なものが一切なく、それで充分に優雅さを感じさせる身のこなしである。作品と役への深い理解と、踊る技術の高さによって実現されているものではないか。一般に何かが欠けると(たとえば年齢の上昇によって技術が下がるなど)、他のもので補おうとし、それが余分な動きや顔の表情となって現れることがある。
ロパートキナの古典は見慣れた作品に新鮮さを与えてくれたが、わたしを驚かせたのは現代的な作品を踊る姿だった。『孤高の白鳥』の中で、ニコライ・アンドローソフ振り付けの『タンゴ』の舞台が紹介されていたが、そこで彼女はまったく違った次元でダンスを披露していた。手足が長く背の高いロパートキナが、サテンのシャツにぴったりとした細身のズボン、足元はフラットシューズ、髪はショートカットのまま、手にはツバ付き帽子(ジャケットも床にあった)、という姿で、アコーディオンが奏でるタンゴのリズムに乗ってスピーディーに、鋭く舞う。女性とも男性ともつかないジェンダーの表現。男の役を踊っているのかもしれないが、(宝塚の男役のような誇張した)男っぽさなどみじんも出さない。そこにいるのは手足の長い、大胆に動き、俊敏さを見せる、美しい人間。男性、女性、あるいは中間なのか。どちらでも構わない。
ロパートキナの『タンゴ』を見ていて、こんな風に踊れるダンサーは他にいるだろうか、男であれ女であれ、と考えた。そしてロシア、あるいはウクライナの文化は、こういうセンスのアーティストを生むような土壌があるのだろうか、と不思議に思った。感覚的にいうと、女性ダンサーのこのような身振り、仕草は相当近代的、現代的な思想や文化の上にしか出てこない気がしたからだ。ロパートキナのバレエを見たあと、たとえば日本のダンサーの踊りを見ると、(今までは気づかなかったが)かなり女性っぽさが強調されているように見えてくる。「しな」というのだろうか、あるいは顔つき。その意味で(これも今まで気づかなかったが)最盛期だった頃の森下洋子にも同じことが言える。彼女は非常に日本的なバレエダンサーだったのだ。
ロパートキナは43歳で引退した。怪我が原因と発表されたからその通りなのかもしれないが、ある意味でその時期がきていたのかもしれない。ダンサーの引退年齢はそれぞれだ。しかし、何人かのダンサーを見てみると、45歳前後が「踊れなくなる」年齢なのかもしれないと思う。それまでと同じように踊れない、という意味で。もちろんもっと高齢になるまで踊る人はいる。しかしその人たちも40~45歳を超えて、最盛期のときと同じように踊れるわけではなさそうだ。踊る演目を変えたり、振りを変えたり、工夫をして長く踊ろうとする、ということ。高齢になってこそ踊れる演目もあるかもしれないし、身体状況の変化を汲み取って新作の振り付けをすることもできるだろう。
ロパートキナは練習やリハーサルをビデオに撮って、その映像を見ては直し、踊ってまた撮り、それを見てまた直し、と何回もすると聞いた。それをやって自分のからだの状態を常にチェックしていれば、技術的な衰えがきたとき、まず自分が気づくのではないか。多くのダンサーがそこまで自分のからだを客観的に厳しく見ているとは思えない。マイヤ・プリセツカヤがベジャールの『ボレロ』を踊ったのがちょうど50歳のときだという。その『ボレロ』は悪くなかったし、プリセツカヤらしいパワフルな感じも出ていた。ただ20代、30代のときのからだの動きとは違うように思った。鋭さや軽快さの点で。相当高齢になるまでポアント(トウシューズ)で踊っていたとも聞くが、映像は見たことがない。
ルドルフ・ヌレエフの40代後半の映像(森下洋子とのパドゥドゥ)を見たとき感じたのは、おそらく彼はヨーロッパではもう踊っていないのではということ。それは韓国公演の映像だった。振り付けや芸術監督の仕事をメインにするようになっていた時期だ。相手役の森下洋子はまだ30代半ばくらいで、充分踊れていた。しかし彼女も、ある時期以降(50歳前後かそれ以降くらいか)に見たときは昔の面影はなかった。映像で見ただけだが、年齢による技術の低下は明らかだった。その時代の映像は、そのあとYouTubeからすべて削除された。最近のもので残っているのは『瀕死の白鳥』のみ。2008年、60歳のときの踊りだ。振りも、からだの使い方も限定的で、表現力においても最盛期とは比べられない。彼女は今も「現役」で自分のバレエ団(松山バレエ団)で『眠りの森の美女』などの主役を踊っているそうだ。
アクロバチックなからだの使い方、類まれな柔軟さで、ときに「体操みたい」と言われたりもするシルヴィ・ギエムは2015年に50歳で引退した。キャリアの最後の方は、モダンバレエ的な創作ものを主に踊っていて、いわゆるクラシックのグランドバレエはある時期以降、踊っていないと思う。作品を選んで踊っていたということだろう。
ロパートキナも、怪我がなければ50歳くらいまで踊った可能性はある。その場合は、踊る演目や振り付けを厳密に選び、稽古やリハーサルではビデオチェックを欠かさず、自分自身で「ここまで」という時期を判断して引退したのではないかと想像する。