在日二世とわたし
わたしは日本国籍をもち、日本語を話す。両親はどちらも「日本人」で、生まれも育ちも日本。日本の公立学校を中心に教育を受けてきた。日本ではこういう人間を「純粋な日本人」と呼び、日本に住む大半の人間はこういう人間だから、日本は単一民族国家と言ってもよい、とされたりもする。
でも実際、日本には日本で生まれ、日本語を話す「日本国籍を持たない人」や「日本に帰化した人」がたくさん住んでいる。古くから住み、数としても一番多いのは朝鮮半島をルーツにもつ在日コリアンではないかと思う。在日コリアンに親しい友人がいるわけではないが、ここ15年くらい、朝鮮半島からやって来た人やその子ども、またその母国に暮らす人々も含めて関心の対象の一つにしてきた。
きっかけが何だったかはよく覚えていない。もしかしたら東京国際ブックフェアで、韓国のブースで見つけた本が興味をもつことにつながったかもしれない。その本とはMirok Li(李 弥勒)による自伝『The Yalu Flows: A Korean Childhood』。原典はドイツ語で書かれているが(作者がドイツに亡命して暮らしていたため)、わたしが手にしたものは1986年出版の英語訳版で、韓国で出版されたものだ。
ミロク・リー((1899-1950))は、日本による植民地支配が始まった年の10年後の1920年、3.1(独立・抗日)運動を経て、ドイツに単身亡命している。中国との国境を流れる790Kmにわたる大河、ヤールー川(鴨縁江/朝鮮名:アムノク川)を夜の闇にまぎれて命からがら渡っていったことから、タイトルの『Yalu Flow』はつけられたのだろう。この作品では、ミロクの幼年時代からドイツ到着に至るまでの十数年間のさまざまな出来事が、ひとつひとつ思い出しては辿るようにして書き綴られている。
ブックフェアでたまたま手に取ったこの本のどこに惹かれたかと言えば、日本による植民地化がはじまったときのことが、そこに暮らす地元の子どもの視点で詳しく描写されていたからだ。こんな話は聞いたことがないと思い、その本をすぐに購入した。ミロク・リーによるこの本は、当時の朝鮮半島や日本の状況を、一般市民の暮らしを通して知る機会となったし、自伝としても、また物語としても面白かった。
何年かのちにこの作品を日本語訳し、主宰する葉っぱの坑夫で出版している。
この本を読んだこと、日本語に訳して出版したことで、朝鮮半島に対して親しみをもつようになったのは確かだ。また同じ頃にちょうどサッカーの日韓W杯が開かれ、その試合を見ていて、韓国代表チームに感動させられたことも、朝鮮半島への興味に多少影響したかもしれない。しかし在日朝鮮人について知るようになるのは、もっとあとのことだと思う。それがいつ頃のことか、ほとんど記憶にないが、mixiが人気だった頃、すでに「在日朝鮮人韓国人」のコミュニティに参加していたという事実はある。
引き続き、朝鮮半島の問題や在日コリアンに対して興味をもちつづけ、様々な著者の関連図書を読んできた。テッサ・モーリス-スズキによる、在日たちの帰国事業を追った本『北朝鮮へのエクソダス』や北朝鮮を旅した『北朝鮮で考えたこと』を読んだのもそのうちものもだ。コリアンでも日本人でもないイギリス出身の学者が、日本と朝鮮半島をめぐる問題に真摯に迫っていることに衝撃を受けたし、彼女の状況認識の仕方に尊敬の念を抱いた。日本サイドの言説から外れてものを見ることの大切さを知ったのも、このときのことだと思う。
日韓W杯の延長で、学術書やエッセイ以外に、サッカーの世界でも、在日や朝鮮半島の選手たちを興味の対象として追ってきたところはある。最初に知った在日の選手は安英学(アン・ヨンハ)選手で、新聞のインタビュー記事を読んで感銘を受けたことを覚えている。具体的な内容は覚えていないが、朝鮮半島や日本の社会に対する見方や、北朝鮮代表としてサッカーをする気持ちなど話していたと思う。2010年南アフリカ大会のときは、鄭大世(チョン・テセ)選手にも注目していた。のちにこのときの北朝鮮代表について、イギリスのスポーツライター、ショーン・キャロルが鄭大世に取材したものを日本語に訳して出版もしている。
知られざる国のサッカー代表
また南アフリカ大会の前には、韓国代表の朴智星(パク・チソン)選手が、新聞のインタビューに答え、南北両朝鮮がいっしょに南アフリカに行けたらいいと思う、と発言していたのを読んだ。そうなんだ、両国の選手たちの中には(そして在日の選手の中にも)そのように望む人が少なからずいるんだなあ、と感慨を覚えたことを記憶している。
ここまで、朝鮮半島をルーツとする人々へのわたしの興味を、その始まりから書いてみた。少なくとも10年から15年くらい、そうしてきたということだ。おそらくそこには自分が日本人であることが関係している。また最近『在日二世の記憶』(2016年、集英社)という本を読んで、いろいろ思うところがあった。新書版ながら750ページを越す、分厚い、中身の濃い書籍だ。
この本は小熊英二、高賛侑、高秀美編による在日二世のインタビュー集で、50人の在日コリアンを6年間かけて取材したオーラル・ヒストリー集である。被取材者を生年月日順に並べてあり、一番年上の人が1932年生まれ、一番若い人が1967年生まれと、同じ在日二世でも35年の差があった。35年と言えば一世代のあたるわけで、社会状況や経験の違い、それに対する感じ方にもバラツキはあった。しかし時代が進んでもいくつかの共通事項はあり、個別の体験への衝撃とともに、読んでいて記憶に残った。
記憶に残ったことの一つは、親の世代の暮らしの貧しさであり、読み書きができないなど在日一世である親たちがたどった人生の厳しさだ。そのような貧しい暮らしや、朝鮮人の日本社会での地位の低さなどから、自分がなぜ朝鮮人として生まれなければならなかったかについて、否定的な気持ちをもったことがある二世も多いようだった。日本の学校に行っていた者は、朝鮮人であることを恥じたり、隠したりもしていた。彼らが「チョン」などと言ってからかわれたり、いじめられたりという話を聞くと、いったいいつの時代の話かと思うが、自分が学校生活を送っていたときと重なっているのだ。つまりわたしが同じ社会で生きていた時代の話しなのだ。同じ社会に暮らしながら、知らない世界が、見えない世界があったということだ。
この本に登場するのは、主として自分で道を切り開いてきた人々で、音楽家やスポーツ選手、映画監督など名の知られた人も何人かいる。そこまで有名でなくとも、日本社会の中で事業を成功させたり、起業家として業界では知られている人もいるようだ。しかし多くの人に共通しているのは、子ども時代に、自分は在日だから、普通の日本人のようにまともな職業(会社員や教師など)への道は断たれている、という認識をもたされていたという事実だ。
ある人は、学校の進路相談で「教師になりたい」と言うと、教師から「あんた知らんの、それは無理やで」のようなことを平然と知らされたりもしている。大学院時代に、在日は大学の教員にはなれない(なった人はいない)と担当教授に教えられ、大学院をやめてヨーロッパに留学した人もいた。未来を夢みる子どもや十代の若者にとって、日本社会にいる限り、自分には自由に生きる権利、職業を選択する自由が失われている、と知ることがどういうことだったのか。それは想像を絶すること、底なし沼のような暗く重い未来を受けとめねばならないことだったのではないか。普通ならいろいろな夢を描く年代に、である。
そういう社会の中で、何も知ることなく、ぬくぬくと生きてきたのは、そしてその社会をつくり、存続させてきたのは日本人である自分だ。この本の終わりのまとめの部分で、小熊英二が「在日の歴史は日本社会の鏡であり、もう一つの日本史だ」と言っていたことは正しいと思う。
在日の人に知り合いがいなくとも、在日の人がいる日本社会を自分も構成し、日々生きていることで、すでに彼らと関係している。いや、彼らはわたしたちだ。自分がどう生きるか、日本で、あるいは国外でどう生きるか、を考えるときにも、自分の国に在日の人々が暮らしていることが無関係とは言えない。家庭内で北朝鮮のことを、あるいは韓国のことを話題にするときも、なぜ朝鮮半島を日本が植民しようとしたのか、なぜ分断は起きたのか、という知識なしに、あるいは事実の曲解や断片的な理解で語ることに対して、自覚的になることは必要だと思う。とくに小さな子どもがいる家庭では。
日本社会で生きることに疑問をもった二世たちが、ドイツやフランスに留学などで行き、外から自分のアイデンティティを眺めてその意味を知ったという話は興味深い。ドイツに留学していて、ドイツにおけるトルコ移民の人々が、在日の状況と似ていることに気づいた人もいた。在日の人たちはこのような見方ができることで、よその国の同じような状況にいる人々に共感したり、連帯したりすることで、自分の住む世界や思想の幅を広げているとも言える。日本に生まれ育って、自国には「日本人」しかいないと思っている日本の人々より、確実に広い視野を確保している。
『在日二世の記憶』はページ数も多いし、いっぺんに読むのは難しそうだったので、毎日一人ずつ読むことにしていた。朝起きて、コーヒーやハーブティーを飲みながら、一人一人の人生を知っていく。50人いるので50日、プラス巻末の編者たちの鼎談に3日、全部で53日間かけて読んだ。中身の濃い人生なので、一日に一人でちょうどよかったと思う。登場する人々が文中であげていた、お薦めの朝鮮史の本、本人発行による俳句雑誌、出版されたエッセイ集、音楽家の場合はYouTubeの動画など、インタビュイーの周辺も当たりながら読んだ。歴史作家、片野次雄著『李朝滅亡』もその一つ(この本は購入した)。インタビュイーの一人が、朝鮮と日本の関係を知るのによい著作であると紹介していたので。
『在日二世の記憶』には、在日の人々を救ったり、支援したり、協力を惜しまなかった日本人のこともたくさん語られている。ユダヤ人を助けたと言われる杉原千畝は有名だが、朝鮮人を助けた日本人の話はあまり聞かない。それはユダヤ人は日本人と関係が浅く遠く、朝鮮人は歴史的にも対立や利害が深く近いからかもしれない。また朝鮮人を救うことが、必ずしも名誉にはならない日本の社会の反映なのかもしれない。日本の社会や制度の欠損や進歩を知ることも含めて、具体的な一人一人の在日の人生を本人の語りによって知ることは、統計やメディアが伝える概要的な情報とは全く違う体験が得られる、と感じた。
最後にもう一つ。この本の中の在日二世に、自分のアイデンティティを考えるとき、帰化して日本の国籍はとるが、名前は朝鮮名で生きるという人がいた。最近の新しい傾向かもしれない。日本社会でよりよく生きるために国籍は変えるが、名前は民族のものを残すという考えだ。現実に生きている社会、その中でフルに生きたいと思う自分、その基盤は日本だ。しかし両親や祖父母の文化や言語の中にも自分は生きている。そこに矛盾はない。ある国家の枠組みの中に身を置く選択をしたとしても、自分という個人の全権を国家に託すわけではない。そういうことだろうか。
『在日二世の記憶』小熊英二、高賛侑、高秀美編、集英社 (2016/11/17)