20171027

人種と民族、その違いは?

人と話をしていて、「人種」という言葉の使い方が気になることがある。たとえばユダヤ人。ユダヤ人を「人種」と認識していて、ユダヤ教徒(あるいはその家族)であるだけでなく、鼻が大きく髪の色が濃い、などの肉体的特徴として捉えていたりする。ゲルマンについてもそうで、金髪で目が青いというようなイメージをもっていたりする。いや、ユダヤ人もゲルマンも民族の話であって人種ではないんじゃないか、と言うという、じゃあ民族とは何なの?ということになる。

確かに人種と民族とは混ざり合っているようにも思え、イメージの中では、線引きが難しい、あるいは無頓着に使われている言葉なのかもしれない。20世紀初頭のヨーロッパ人の文章を読んでいても、民族(ethnicity)と言われるべきところに、人種(race)や国家(nation, nationality)という言葉が使われていることがある。人種という言葉は、定義が曖昧なまま、人間集団を区分するときに広く適用されてきたのかもしれない。また、ethnicityという認識、言葉への意識が強く出てきたのは、もっと後の時代なのだろうか、とも思った。

わたしの中では、人種(race)とは、生物学的な分類による身体的特徴から見た人間の区分(こう書くとひどく差別的な感じがするが)であり、民族(ethnicity)とは言語を共有する人の集団という認識がある。しかし同じ言語を使っていても、集団の住む地域や歴史、文化がまったく違うことは多々あり、それを同じ民族と言うのか。また人種といったとき、白人、黒人、黄色人種、、、それ以外には? また白人は1種類なのかなど曖昧な部分がたくさんある。そこで人種について、民族について、それぞれの定義やその違いを調べてみることにした。

まず人種(race)について。コンピューター(Mac/Apple)に付属している電子辞書で「race」を引いたところ、「同じ皮膚の色、肉体的特徴を持つ集団で、Caucasian、Negroid、Mongolian、Polynesianに大別される」とあった。そしてCaucasianとは「白人、コーカサス人」、Negroidは「黒人、黒色人種」、Mongolianは「モンゴル人」(Mongoloidの方が適切かもしれない)、Polynesianは「ポリネシア人」と出てきた。この分類は正しいのか。

日本語版ウィキペディアでは、「コーカソイド」は「主要な居住地はヨーロッパ、西アジア、北アフリカ、西北インド」とあった。身体的、遺伝的特徴として、鼻、眼、頭部、皮膚や体毛の特徴があげられていた。皮膚の色に関しては、メラニン色素が影響する関係で、褐色など白ではない肌色がかなり多いとも書かれている。髪の色も同様。英語版のウィキペディアでは、18〜19世紀の学者ブルーメンバッハ(医学、生理学、人類学)の定義として、肌の白さ、ピンクの頰、茶色から栗色の髪、球体に近い頭、卵型の顔に細い鼻、小さな口などが挙げられている。とはいえ、この学者も肌色については褐色までの広い範囲を認識していたようだ。つまり生物学的(あるいは人類学的)分類の「白人」には、褐色の肌の人も含まれていることになる。

Negroid(黒人)については日本語版ウィキペディアでは、「主要な居住地はサハラ以南のアフリカ大陸」とされている。また「DNA分析の成果によれば、現生人類発祥の地はアフリカにあるとされ、ネグロイドは出アフリカをせずアフリカにとどまった集団の直系の子孫とされる。」という説明があった。解剖学的な特徴としては、「頭部全体は小さめ」「手足が長く、特に膝から下が長い。手首、足首は細い。」といった記述があった。

モンゴロイドについては、日本語版ウィキペディアでは、「東アジア(北アジア及びチベット高原を含む)・東南アジアを中心に、中央アジア・南北アメリカ大陸・太平洋諸島及びアフリカ近辺のマダガスカル島に分布する。」とあった。マダガスカルについては、最近の遺伝学で、この地に住む人はアフリカとアジアの遺伝子が混ざっていることが証明されたそうだ。モンゴロイドの肌の色に関しては、「淡黄白色から褐色までかなりの幅がある」とあり、確かに東南アジアも含めるなら、肌色は黄色に限らないとは言えそうだ。肌色以外の特徴としては、古モンゴロイドは背が低く、彫りの深い顔、体毛が多いなどがあげられ、寒冷地で適応した新モンゴロイドは、体が比較的大きく、平面的な顔、体毛の少なさなどが挙げられていた。

Polynesian(ポリネシア人)については、果たして人種の分類なのか不明なところがある。Polynesianで検索して出てくるのは、「ポリネシア語を話す人の集団」だということ(英語版ウィキペディア)。しかし日本語版ウィキペディアでは「太平洋のポリネシアに住む人々の総称」となっており、人種的区分なのか民族的区分なのかはっきりしない。前述のブルーメンバーバッハは、「頭蓋骨の比較研究などを基礎に、コーカシア(白人種)、モンゴリカ(黄色人種)、エチオピカ(黒人種)、アメリカナ(赤色人種)、マライカ(茶色人種)の5種に人種を分類した」そうで、この中にはポリネシア人は入っていない。

ブルーメンバッハの人種分類について、英語版ウィキペディアを見てみると、マライカ(茶色人種)というのは東南アジアと太平洋諸島の人々(ポリネシア人はここに入りそうだ)、アメリカナ(赤色人種)とはアメリカインディアンを含む「赤色人種」となっている。アメリカインディアンを「赤」で表すことは聞いたことがあるが、それは肌の色なのか? 彼らはモンゴロイドを祖先にもつ人々だと思っていたのだが。

このように人種の分類については、色々な見方があり、決定的な分類はないことや、中でも肌の色については、メラニン色素の影響で変化が出やすく、肌色で人種は分けられないことがわかってくる。

生物学では動物の分類を網、目、科、属、種などで分けている。では人間はこの分類法でいうとどうなるのだろう。「生物の分類」という項目を日本語版ウィキペディアで見てみた。大きい分類からヒトを見ると、ドメイン:真核生物(エノキダケなどもこれに当たる。大腸菌は「細菌」)、界:動物界、門:脊椎動物亜門、網:哺乳網、目:サル目、科:ヒト科、属:ヒト属、種:ホモ・サピエンス。

因みに南米原産のカピバラを見てみると、界:動物界、門:脊椎動物亜門、網:哺乳網、目:ネズミ目、科:テンジクネズミ科、属:カピバラ属、種:カピバラ。テナガザルはどうか。界:動物界、門:脊椎動物亜門、網:哺乳網、目:サル目、科:テナガザル科、属:テナガザル属。種としては、フクロテナガザルなど9種の名が挙げられている。

うーん。要するに、生物学的に見た場合、ヒトは誰であれヒト属に分類され、ホモ・サピエンスという種に属するということ。そうして見ると「人種」=ヒトの種類とは何なのか、生物学的にはあまり意味のない種分けのように見えてきた。あるいは「人種」という見方は、生物学的というより、人類学的な、あるいは社会学的な分類によるものと見た方がいいのかもしれない。

もし人種(race)が、社会的な産物に過ぎない分類だとすれば、言葉の側面から見てみるのもいいかもしれない。まず英語のraceの語源を見てみよう。

Online Etymology Dictionaryというオンラインの語源辞書を見てみた。
http://www.etymonline.com/word/race

race (n.2)
「共通の家系にある人々」という意味で、16世紀フランスの中世の言葉race、古くはrazza(種族、血統、家族などの意味)から来ており、イタリア語のrazzaを元にすると考えられる(同根の言語であるポルトガル語、スペイン語はraza)。語源研究家は、ラテン語の「radix(root)」とは繋がりがないが、tribeやnationの語感はもっていると認めている。

英語の元々の意味でいうと「ワインの特徴的な香り」(1520年)、「共通の仕事をもつ人々の集団)(1500年)、「世代」(1540年)などがある。「蓄えを共有していると見なしている部族、国、人々」(1560年まで)。1774年になると「人間の身体的特徴を基にした重要な分類の一つ」という解釈が出てくるが、人類学者の間でこの分類が認められたことはないそうだ。

これらの定義を見ていくと、古くは血統や家族をもとにした、部族のような利益を共有する地域集団を表す言葉だったように見える。それが18世紀なって「人間の身体的特徴」という観点が出てきたのは、地域社会が外に広がり、よそから来た人々との交流が活発になったからかもしれない。そしてそれを利用して優位に立とうとした集団が出てきたのかもしれない。

今度は日本語の資料を見てみよう。国際人類学民族学会議での竹沢泰子さん(京都大学、文化人類学者)の話。
http://oldwww.zinbun.kyoto-u.ac.jp/conference/nhk.html

1. ヒトゲノム解読の点から言っても、集団ごとに遺伝子がセットになっていて、他の集団と異なるという人種概念は破綻している。
2. 皮膚や目の色に違いが出るのは、地域の環境による作用が大きい。
3. 従っって身体的特徴をもとに、人間に境界を引くのは生物学的に有効ではない。
4. オリンピックなどでの運動能力の差異についても、社会的状況や経済的な国の政策の影響の方がはるかに大きい。
5. さまざまな集団間における遺伝学的な差異は、ヨーロッパ人とアジア人の差より大きい。「アフリカ人の特性」というような十把一絡げな括り方はあり得ない。

「人種と民族の定義の違いは?」ではじまった問いは、人種という見方は存在しない、という結論に至りそうだ。それが今の時代のものの見方だということ。近年、海外の研究者の間では、コーカソイド、ネグロイドなどの言葉ではなく、ヨーロッパ人、アフリカ人、アジア人といった地理的な呼び方をするようになっているようだ。ということは、ヨーロッパ人の中には、日本からヨーロッパに移住した両親の子も入るわけで、この分類では身体的特徴は関係ないことになる。

生物学的、遺伝学的に見たとき人種の分類は意味をなさず、人類学者は人種に境界を引くことを受け入れていない、となれば、「人種」という区分の仕方はないのだ。分けても意味のない分類なのだ。昔は「人種」という区分をを利用することで利益を得られる人がいたので、この考えが広まり、浸透したのかもしれない。今のわたしたちが、これを利用する意味はあまりない。これによる差別などの悪弊の方がずっと大きいだろう。

でも人種などない、という考え方が一般的になっているかと言えば、それはそうでないと思う。実際、この記事を書きはじめる前のわたしには、その認識はなかった。この考えが浸透するには20年、30年かかるのだろう。

最初の問いに戻ると、民族の方はどうなのか。民族という分類はあるのか。これについては次回また考えてみたい。

20171013

国際競争力ってなにを測るものなの?

国際経済フォーラム(World Economic Forum)が先月発表した国際競争力ランキングによると、スイスが9年連続1位だという。国際経済フォーラムの調査なのだから、GDP(国内総生産)とか貿易輸出入額とか財政収支(国の歳入から歳出を引いたもの)とかで測った結果なのかと思ったら、どうもそうではないようだ。

ちなみにスイスはGDPは19位、財政収支は32位とたいして高くはない。ただし人口が800万人と少ないので、一人当たりのGDPは世界2位。日本はGDP3位(人口1億2700万人で一人当たりGDPは22位)、貿易輸入・輸出額はどちらも4位、しかし国際競争力は9位だ。財政収支が123位と異常に低いのが原因しているのだろうか?

国際経済フォーラムの説明によると、国際競争力とは、国民が健康で安全で満足できる生活にどれくらい到達しているかを測るものだという。そのキーになるのは生産力で、生産性が向上すれば、収入が増え、よい生活が見込めることになるという論法。しかしそれが持続的、包括的でなければならず、社会のすべての人が、その国の経済発展から利益を得られることが競争力となる、としている。

一部の人のみが、経済発展による恩恵を受け、それを独占していれば、国際競争力は低いと判断されるようだ。また一時的な経済の興隆も評価の対象にならない。

競争力を測る方法として、国際経済フォーラムでは12の柱を立てている。そこには機関(公的機関、私的機関)、インフラ、マクロ経済(景気変動、経済成長など一国の経済活動全体の動き)、環境と健康、初等教育などの基本事項が含まれている。これらはある国が発展を進める際、最初の段階で取り組むべき問題だからだという。公的・私的機関のところには、財産権の保護、行政の効率性と透明性、司法の独立性などがあげられていた。

その国の運営や仕組が、公平で正常なものでないと、競争力は低くなってしまうということか。

他に立てられている柱としては、より高度な教育(教育の量と質、職業訓練)、技術革新、ビジネスの手法の効果や洗練、市場のサイズ(国内外)、技術的迅速さ(個人及び企業からの技術の採用、情報通信技術の使用)、労働市場(効果的で柔軟な受け入れ、職場における能力主義と男女平等)などがあった。

外国人の就労への門戸、年功序列ではない適正な能力判断、女性雇用者の正当な扱いなどは、日本社会では伝統的には不得意な部分だったと思われる。果たして今はどうか、向上しているか。

10ヶ国語でスイスのニュースを伝えるSWIによると、「スイスは優れたイノベーション技術、ビジネスや労働市場の質の高さが評価され、過去10年間で最高得点をマークした」とあり、報告書によれば、ランキング1位の評価としては、「経済活動を支えるのは、極めて発達した公衆衛生、初等教育、確固たるマクロ経済環境などといった基礎的な要素だ。スイス経済は高い柔軟性があり、国際的にも最も機能的な労働市場が整っている」というものだった。

日本は「マクロ経済環境」は去年も今年も100位前後と低いが、「健康・初等教育」は7位(去年5位)と低くはない。また「鉄道の品質」も2位(去年首位)と高い。技術革新に関する項目では「産学連携」が23位(去年18位)となっている。日経新聞デジタル版によれば、「日本はインフラや保健に関する項目で評価が高い一方、巨額の公的債務が重荷になる構図に変わりはない」そうだ。

ある国のレベルを評価するとき、経済は中心的な指標になるのだろうが、経済といっても、GDPの高さ比べでは測れないものがある、ということなのだろう。結局のところ、全体として見たときに、その国の人々が日々どのような質の生活を手にしているかが経済力であり、国際競争力の目安となるというわけだ。

ここでちょっと横道にそれて、国ではなく個人の「国際競争力」について考えてみよう。GDPに当たるものが一世帯(一人でも複数でも)の総収入。一人当たりのGDPはそれを人員で割ったもの。機関は世帯運営の仕組や決めごとになるのだろうか。家族内での透明性や自律性が問われることになる。財政収支は世帯収入から支出を引いたものだ。インフラはケーブルテレビやインターネット、Wifiの設備とか電気やガス、近隣の交通機関などが整備されているか。あるいは選択的に使用しているか。教育を受ける機会や家庭内の男女の公平性なども指針になるだろう。 

確かにこういう項目で高い数値を示す人は、社会に出たときに、競争力があると言えるのかもしれない。そう考えると、個人の場合も、収入が多いだけでなく、生活環境内のインフラ、公平性や透明性、教育の機会などが確保されていること、家父長制的な習慣が幅をきかせていないことなどが、競争力になりそうだ。

また生産力については、終身雇用の正社員として勤めて安定的な収入があるタイプだけでなく、いくつかの職業をかけもちしたり、副業やボランティア活動で生産性が示せるタイプの人もいるかもしれない。ただしその場合も、持続性や包括性が求められるだろう。また家族世帯であれば、経済的な発展があった場合、構成要員すべての人に利益として還元されることも、競争力を測る目安になるだろう。(あと生産性といったとき、子どもをたくさん産む、というのはどう測られるのだろうか。育てるのに資金と労力がかかるが、成長したとき、自己の競争力を高める価値ある存在になる可能性はあるかもしれない。ただし子どもは親の財産でも所有物でもないので、過剰に期待はできないと思っていたほうがいい。)

このように考えていくと、個人の場合も「競争力」という言葉が示すのは、単に人と比べて勝つことや、所得の量だけで判断されるものではないことがわかる。たとえ収入が多く、会社での地位が高かったとしても、仕事一辺倒で教育の機会をもたず、家庭内では家父長的で配偶者や子どもに利益を還元していない人は、競争力が低いことになるのかもしれない。

自己を映す鏡として、競争力という観点から、項目別に自分の現状をチェックしてみるのは面白いのではないか。

What is competitiveness?(競争力とは何か。英語)
https://www.weforum.org/agenda/2016/09/what-is-competitiveness/