エリック・サティ、ちょっとわかった気がした
19世紀末から20世紀にかけて活躍したフランスの作曲家、エリック・サティ(1866 - 1925)。『ジムノペディ』や『グノシエンヌ』を聞けば、どこかで聞いたことがあると思う人は多いと思う。映画に使われていたり、カフェでかかっていたり。日本でも何度かはやったことがあって、最近では2016年が生誕150年で、展示やCDの発売、コンサートなどあったようだ。
わたしにとってはこれまで特別好きな作曲家というわけでもなく、知っている作品もごくわずかだった。ただ『ジムノペディ』をピアノで弾くと、なんとも言えない(こんな曲を書く人がいるのか、というような)不思議な感覚に囚われた記憶がある。単調で、静かで、ドラマがなく、どこまでも坦々と同じ調子でつづいていく音楽。調性があるのかないのか、メロディーはそれほど突飛というわけでもなく、まあまあ自然な感じ。でもシューベルトとかベートーベンでは聞いたことのない音の運びやハーモニーがある。
そのサティに最近ふとしたことで興味が湧いた。それはほぼ同時代の同じフランスの作曲家モーリス・ラヴェル(1875 - 1937)の書いた講演録を読んでいたときのことだった。ラヴェルは1928年にアメリカツアーを4ヵ月に渡って行なっているが、コンサートの前にレクチャーをすることもあった。そのレクチャーで、アメリカの聴衆にフランスの現代(近代)音楽の話をした中に、サティの話題があった。以下一部を日本語訳で紹介する。
サティは非常に鋭敏な知性の持ち主でした。ずば抜けて優秀な発明家の知性です。また偉大な実験精神の持ち主でもありました。サティの実験はリストが到達したレベルには至ってなかったとしても、多様性とその重要性において、計り知れないほどの価値をもたらしました。率直にして巧みな方法で、サティはこの道を示しましたが、他の音楽家たちが自分の敷いた道を追いかけはじめると、すぐに自身は方向を変え、ためらうことなく、新たな実験場へと道を切り開いていきました。(中略) 彼のもたらしたものはまったく独善的でなかったため、多くの音楽家へのかけがえのない価値ある贈り物になりました。(A Ravel Reader : Correspondence, Articles, Interviews by Arbie Orensteinより)
この文の中で、「もたらしたものはまったく独善的ではなかったため」という部分に興味を惹かれた。この独善的は元の英語ではdogmaticとなっていて、意味としては自分の信じる考えや意見を強力に押す、あるいは押しつける、譲らない、というようなことだと思うが、この文脈でラヴェルが「dogmaticではない」と言ったことからは、それ以上の意味の広がりが感じられた。
それに気づいたのは、この文を読んだあとで『ジムノペディ』をピアノで弾いてみたときのことだった。久しぶりに弾いてみて、この開放感はなんだろうと思った。言葉であらわすなら、openとかopenness、遮るもののない空間性、果てのない時間性、空間・時間をこえる開放性とでも言おうか。誰もに開かれた音楽、誰もが好きに弾いていい曲。子どもが無邪気に弾けば明るい歌に、初心者がポツポツよろよろと弾けば不安なつぶやきに、上級者が弾けばクールで繊細なタペストリーに、というように。
『ジムノペディ』
独善的の反対は、日本語だと協調的とか民主的などがくるようだが、英語のdogmaticの場合だと、equivocal(あいまいな)とかdoubtful(不確か、疑わしい)、あるいはflexible(融通がきく、柔軟な)などが挙げられ、日英の意味のずれを感じる。どちらの言語にも、openness(開放性)が反対語としてくることはないが、ラヴェルの言う「独善的ではないことで、多くの音楽家への贈り物になった」の文脈から読みとると、「独善的」は独占的の意味も含むように思え、作品にオープンなところ(開放性)があったから、後の音楽家にもたらすものが大きかったとも取れる。
そんなことを考えているとき、『ボレロ』を踊って有名になったダンサーのジョルジュ・ドンの言葉と出会った。東京バレエ団代表の佐々木忠次氏の評伝の中に、佐々木がドンに、「ボレロを踊るのは簡単でしょう、同じことを繰り返してればいいんだから」というようなことを言ったら、ドンが「そうです、誰にでも踊れます」と答えたという場面があった(追分日出子著『孤独な祝祭 佐々木忠次 バレエとオペラで世界と闘った日本人』、2016)。
確かにベジャール版の『ボレロ』はあるパターンを繰り返す振り付けになっていて(ラヴェルの音楽も)、その動きは誰にでも真似できそうなところはある。実際は、15分くらいある作品をほぼ一人で踊り通すことは簡単ではないだろうし、かつてこれを踊ったマイヤ・プリセツカヤは、同じように見えて一つ一つ違うエピソード(振り)が入るこの作品を(短期間に)覚えるのに苦労したと自伝に書いている。
Maya PlisetskayaによるBOLÉRO
しかしわたしはジョルジュ・ドンの言った「誰にでも踊れます」という言葉が強く印象に残った。振りをそのまま真似すれば形を踊ることはできる、という意味なのか。サティの『ジムノペディ』もある意味、誰にでも弾ける曲だ。ものすごいテクニックがなくても、ピアノの初心者であっても、楽譜を読んで音にすることは何とかできるだろう。左手は主にワンパターンな伴奏で、そこに風変わりな右手のメロディーが乗ってくる。そして同じフレーズの繰り返し。ゆっくり弾いていい。たいていLent(ゆっくり)の指示が記されているから。
ゆっくり弾く、ということの中にも、サティの開放性が現れている気がする。遅く弾くことによって、余白や空間が生じる。ピアノ曲は割り合いからいうと、速い曲が多い。細かい音符がずらずらと並び、転がるように弾かれる曲。ゆっくり、それもレント、アダージョ、ラルゴといったかなり遅いテンポの曲は、それだけで特別な感じがある。ゆっくり弾くことで、曲との対話がより多く生まれる気もする。ピアノ初心者にとっては、速く弾くのと同じくらい、ゆっくり弾くのは難しいかもしれない。それは空間や時間を自分が支配しなければならないからだ。
ゆっくりということでいうと、『グノシエンヌ』も同じだ。今回サティに興味をもってから、『グノシエンヌ』の6曲をピアノで弾いてみた。楽譜はいつもお世話になっているIMSLP(ペトルッチ楽譜ライブラリー)でPDFをダウンロードして印刷(無料)。『グノシエンヌ』を弾いてみると、『ジムノペディ』と同じようなスタイルだけれど、もう少しエキセントリックで異国風(中東とかアジアとか)な趣きがあった。IMSLPにアーカイブされている楽譜は、パブリックドメインになっているもので、楽譜そのものも古いものが多い。最初にDLした『グノシエンヌ』の楽譜は、小節線のない曲がほとんどだった。1890年度版も見てみたが、やはり小節線はなかった。見慣れないながらも、ビジュアル的にどこか開放感がある。川の流れのようだ。2014年度版の新しく編集されたものは、すべて小節線が入れてあった。編者が入れたものだろう。
サティの楽譜には、楽譜のところどころに言葉が書き込まれていることがよくあり、これがまた面白い。「何か問いかけるように」「考えの及ばないところから」「自分の中で反すうする」「舌で味わう」「自尊心を捨てて」「予知能力をたずさえて」「自分に教えるように」「つかの間一人になって」「穴を見つけたみたいに」「非常に戸惑い、途方にくれて」などなど。詩の言葉と言ってもいいかもしれない。実際、弾きながらこれらの言葉を汲み取ろうとすると、思わぬ効果や、インスピレーションを得た音の連なりが現れることもある。楽譜にこんな風な指示があることは珍しい。普通はもっと即物的、あるいは抽象的な指示が多い。「強く」「急がずに」「いきいきと」といった。
家で楽譜を探していたら、輸入盤のサティの楽譜ピースが出てきた。”Children’s Pieces for Piano” という三つの組曲が入った薄い楽譜で、どの曲にも音符を追うように言葉が書かれている。『豆の王様の戦いの歌』では、「なんて愉快な王様だ、そのお顔はまっかっか、王様は踊り方を知っている、王様のお鼻は毛だらけ、、、」。かと思えば『友だちの頭にやきもち』では、「やきもちを焼いたら、幸せにはなれないよ、オウムをうらやんだ男の子がいた、、、」というように。音符はシンプルながら、バイエルなどに馴染んだ子どもには、曲があまりに妙ちきりんでなかなか弾けないかもしれない。弾いてる音が合ってるんだか間違ってるんだか、弾きながら判断しにくいのだ。しかし面白いことは面白い。こういうものを好きな子もいるかもしれない。
他にサティでよく知られた曲に『ヴェクサシオン』というピアノ曲がある。音源で聴くと抜粋のCDで70分くらいの作品(指示通り全編弾くと24時間かかるとも聞く)だが、楽譜はたったの1ページ(3段)。この楽譜もIMSLPでDLしたのだが、タイトルの下にフランス語でこう書かれている。
作曲者からの注釈:ここにあるパターンを840回繰り返すこと。弾く前に心して、最大限の静けさと、極限の不動をもって演奏すること。
非常にゆっくりと(tres lent)の指示がある。楽譜の1段はテーマで片手(左手のバス)のみ、あとの2つの段にはマークが上についている。そしてテーマのところに、このマークのあるところでは、テーマのバスを弾くことと書かれている。つまりテーマをまず弾き、次に和声のついた1段目を弾いて、またテーマ、そして別の和声のついた2段目を弾く、これが1セット。それを840回繰り返すということらしい。
このテーマは単音のみの旋律で、調号も小節線もない。四分音符と八分音符からできている。音数にして20音足らず。ド(ハ)から始まりミ(ホ)で終わる。音の幅もファから(上へ)ミと狭い。途中シャープやフラットがいくつかつき、不思議なメロディになっている。
1段目、2段目にはそれぞれ、バスと同じ音価(音の長さ)の二つの和音が重ねられている。これがよくよく見ると1段目と2段目は、鏡和音(などという言葉ないと思うが)になっている。つまり上下の重なり方が反対になっているのだ。たとえば1段目の最初の2和音は下がラで上が♭ミ。これが2段目では(1段目の)下の音ラが上になっていて、その下に♭ミが重なる。ラの音を挟んで、上の♭ミと下の♭ミが鏡のようになっている。終わりまでこの進行になっている。1段目、2段目の2和音の響きを比べると、同じ和声だが2つの音の開き幅が5度、4度と違うので、響きも変わる。そしてもちろんメロディも(最上部の音が変わるので)。
作曲家の指示に従いこれを弾いてみよう。どんな感じがするか。
840回繰り返さなくとも、瞑想でもしているような気分になってくる(いや、いつか1度はやってみよう)。あるいは非常に穏やかなトランス状態というか。単純な左手のバスのメロディが、逐一繰り返しのとき挟まるところがキモかもしれない。それにより短いレンジでのリピート感が強調される。そういえばラヴェルの『ボレロ』もたった二つのメロディの繰り返しだった。単一のリズムに乗って、二つのメロディが延々繰り返される。その繰り返しによって興奮状態が生み出されている。平板、単調、シンプルなもののリピートから、最大限のドラマが創出されるという、ベートーベン的ドラマチックとはまったく違う「熱狂」のアイディアだ。
サティの音楽は「家具の音楽」という言い方で現されたりもする。単調で時間軸がないような、ただ空間に広がる壁紙みたいな音楽。でも「弾く前に心して、最大限の静けさと、極限の不動をもって演奏すること。」という『ヴェクサシオン』の注釈を読むと、瞑想のための音楽のようにも見える。
以前は面白いとは思ったものの、2、3回弾くとあきてしまったサティだが、今回いろいろなことを知って(特にラヴェルの解釈)、何度弾いても楽しみが見つけられるようになった気がする。そしてもう1回、もう1回と繰り返したくなる。サティという知的で、開放的で、実験精神あふれる作曲家と触れ合う、その音楽に近づく、そういう楽しみを見つけた気がする。