野生と飼育のはざまで(2)
注)前回同様、以下の記事は現時点での知見をもとに書きました。気づいた間違いや新たな発見、見解は、そのつど後の記事で更新していきたいと思っています。
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前回につづいて、野生動物と飼育動物が置かれている環境の違いや問題点、その未来について、さらにはそれに対する人間の見方について考えてみたいと思う。今回は三つの事例を上げて考察する。まず前回書いたことの訂正として、熊本サンクチュアリを取り上げたい。
実験室のチンパンジーを救う試み
前回、テネシーのサンクチュアリの紹介文のところで、「日本にはまだこういった施設はなく、存在自体があまり知られていない。」と書いた。しかし同様の施設は日本にもあった。京都大学野生動物研究センター熊本サンクチュアリである。ここはゾウではなく、チンパンジーの保護施設で、ウェブサイトには「熊本の宇土半島の突端近く、有明の穏やかな海に面したところに日本のチンパンジーの15%が暮らす場所がある。」と紹介されていた。またここをよく知る関係者の話では、チンパンジー以外に、ボノボも現在暮らしているそうだ。
2007年から運営され、以前は「チンパンジー・サンクチュアリ・宇土」の名だったが、2011年から現在の呼称になった。サンクチュアリのスタート当初には、約3.3ヘクタールの敷地に、医学感染実験につかわれていたチンパンジー78人が暮らしていたそうだ(2013年には59人)。因みにチンパンジーの数え方は、一般的には「匹」や「頭」がつかわれているようだが、ここでは人間と同じ「人」で呼ばれている。チンパンジーの研究で知られるイギリスの動物行動学者、ジェーン・グドールの著書(日本語訳)でも「人」がつかわれているのを見たことがある。チンパンジーは分類でいうと「ヒト科」に属している。
サンクチュアリのチンパンジーは、半数がアフリカから連れてこられ、残りはその子孫だという。日本がワシントン条約に批准する1980年以前は、合法的にチンパンジーの輸入が可能で、主として肝炎の感染実験に使用されていていたそうだ。ヒトとチンパンジーは遺伝的に非常に似ている(DNAの塩基配列で約1.23%の違い)ことから、感染実験の対象となったという。
このサンクチュアリの前身は、ある製薬会社の研究施設だったそうで、最も多いときで117人のチンパンジーがいたそうだ。1970年〜80年代、アフリカから輸入されたチンパンジーの小さな子どもたちは、健康なからだに肝炎ウィルスを接種され、気密性の保たれた小さなケージで飼育されたという。30年間という長い年月、そのようにして暮らした。1990年代後半になると、C型肝炎に加えて、遺伝子治療の研究やES細胞をつくる試みが検討され始めた。しかしこうした「侵襲度の高い」チンパンジーに与えるダメージが大きいと思われる実験に対して、反対の声があがった。反対の理由の一つには、チンパンジーが、ボノボやゴリラとともに絶滅危惧種の一つだったことがあるようだ。
こういった流れの中で、チンパンジーが実験動物としてつかわれることはよくない、と考えた研究者、動物園関係者、自然保護活動家の有志がSAGA*という非営利組織をつくり、医学感染実験の停止とサンクチュアリづくりに乗り出した。その結果、2006年に国内での医学感染実験は全面停止となり、宇土にあった医学研究施設は、チンパンジーたちが余生を暮らすためのサンクチュアリに生まれ変わった。日本における大型類人猿に関するサンクチュアの思想は、京都大学の霊長類研究所に始まり、そのノウハウが熊本サンクチュアリに取り入れられたと聞く。
2012年5月、民間の医学研究施設から、3人のチンパンジーがサンクチュアリに移籍されたことで、かつて国内にいた136人の医学感染実験用チンパンジーがついにゼロになった、とサンクチュアリのサイトには記されていた。サンクチュアリにいるチンパンジーの中には、その後動物園に引き取られていく者もあり、また動物園からサンクチュアリにやってくる者もあるという。
チンパンジーをつかった感染実験の成果として、アメリカでC型肝炎ウィルスが発見されるなど、人間の健康への一定の貢献があったのは事実のようだ。しかし代わりに別の生き物が、その代償を払った。人間の「人間以外の動物」への見方が現在とは違った時代、そして動物の輸出入に制限がなかった時代が過去にあり、サンクチュアリはその時代の負の遺産を引き受ける活動をしてきたことになる。経緯など詳しいことはわからないが、実験の現場だったと思われる施設が、保護施設として再出発したことは衝撃であり、また適切な判断と実行が、「現状を変えることは可能だ」という希望をもたらしたことは、日本社会にとって大きいと思われる。
*SAGA(サガ/Support for African/Asian Great Apes)とは、CCCC(1986年にアメリカ・シカゴ科学院に結集した世界中のチンパンジー研究者がつくった「チンパンジーの自然保護と飼育のための委員会」)の精神を受け継いだ組織で、アフリカ・アジアに生きる大型類人猿を支援している。研究者だけでなく、一般の人々にも開かれた誰でも参加できる「集い」となっている。
SAGAのウェブサイト
https://www.saga-jp.org/ja/saga_exp.html
熊本サンクチュアリの詳細はこちら。
http://langint.pri.kyoto-u.ac.jp/ai/ja/k/070.html
動物園の広報活動
この1月に上野動物園(東京動物園協会)の友の会に入った。公益財団法人・東京動物園協会は、上野動物園を中心に、多摩動物公園、葛西臨海水族園、井の頭自然文化園の4園を委託運営する団体である。友の会に入った理由は、ここの機関誌である『どうぶつと動物園』を購読してみたかったから。年4回発行されるこの機関誌は、一般書店やamazon(マーケットプレイスを含む)では手に入らない。入手先はこの団体のみで、友の会の会員になって初めて読むことができる(動物園園内ではギフトショップで販売している)。
入会後とどいたのは『Animals and Zoos / Winter 2018』と副題のついた、A4判より少し小さな50ページ弱の美しい本だ。表紙は多摩動物公園のタイリクオオカミ。3頭のオオカミが顔を上に向けて遠吠えしている。野生のオオカミのようにも見えるショットだ。現在多摩動物公園には9頭のオオカミが暮らしているという。今年は戌年ということで、オオカミが表紙に選ばれたそうだ。
本のつくりをまず見てみよう。特別変わったことをしているわけではないが、デザインや使用している紙など、感じよく作られていて好感がもてた。奥付を見て納得した。アートディレクションとデザインのところに、有山達也、アリヤマデザインストア(旧版の『クーネル』のデザインスタッフ)とあった。質の高い、適切なデザイナーを撰択しているところに、機関誌を大事にし、良いものしようとしていることが感じられた。発行所は東京動物園協会、編集委員長は上野動物園の園長、所在地は上野動物園内になっている。
さて中身の印象だが、これもバランスのとれた堅実なつくりで、編集方針もなるほどというものだった。記事は、施設内にいる動物のニュースを伝えるだけでなく、関係する野生動物や家畜動物にも触れられている。全体として、動物園は野生動物につながっている(あるいはその逆も)、という印象を生み出していた。科学的アプローチとしては、最近死んだ井の頭自然文化園のゾウの「はな子」の骨格標本製作後に得た、歯についての解説が写真入りで掲載されていた。それ以外にも、海外の動物園のニュースや動物に関する本のブックレビューなど、興味深い記事があった(読んでみたい本が何冊かあった)。
記事の中に、野生と水族館のウミガラスのレポートが一つずつあった。野生のウミガラスの方は、北海道の天売島における繁殖についてで、ペンギンに似た容姿のこの海鳥は、人口300人の島の観光資源の一つでもあるようだった。しかし近年、繁殖のためにやって来るウミガラスが減少し、環境省がかかわる保護増殖計画が進められているという。というのも、以前には近隣の他の島にもやって来たこの海鳥は、今では天売島のみとなり、この島でも50年前には8000羽来ていたものが現在は数十羽にまで減っているとか。絶滅危惧種にも指定されているそうだ。
レポートでは保護増殖事業の取り組みの内容が、詳しく説明されていた。繁殖コロニーと呼ばれる崖のくぼみにある繁殖地(以前は島内に複数あったのが現在は1箇所のみ)に、ウミガラスを誘引して繁殖させるのが試みの一つである。具体的には、デコイ(ウミガラスの模型)による誘引、スピーカーをつかったウミガラスの鳴き声による誘引、捕食者対策とビデオによるモニタリングなど。捕食者というのはハシブトガラスやオオセグロカモメなどで、2011年からエアライフルによる捕獲をしているとのこと。しかしオオセグロカモメも天売島で繁殖する海鳥であるため、捕獲場所を限定し、こちらの海鳥の繁殖状況も同時にモニタリングしていると書かれていた。この記事の執筆者は、環境省の自然保護官の方だった。
一方水族館のウミガラスの方は、葛西臨海水族園における飼育について。この水族館では、ウミガラスの足の裏に魚の目のようなものができるという長年の課題をかかえていた。「趾瘤症(しりゅうしょう)」という病状で、飼育下では水中より陸地で過ごす時間が長いことがその原因と考えられた。飼育下では、たとえばゾウも床面の状態の違いから、野生のゾウには起こらない足や関節の病状をもつことが多い。
葛西臨海水族園では、ウミガラスが陸上とプールにいる時間や時間帯を調査し、餌のやり方に工夫を加えた。これまで主として陸上に置き餌していたのを、プール内に投げ餌する割り合いを増やすことで、水中にとどまる時間を増やそうとした。野生下では繁殖のとき以外、ほとんどの時間を海上で過ごすウミガラスの習性にならったのだ。モニタリングしたところ、この方法により、ウミガラスの水中で過ごす時間がかなり増えたという。ただし一定の効果は見られたものの、他にも問題があることが判明した。野生のウミガラスを観察したところ、繁殖地の地面は断崖絶壁の凹凸の激しいところで、水族館のような平坦なところを歩くことは、野生ではあまりないことがわかったのだ。飼育下の平坦な地面が趾瘤症を起こしている可能性があることから、水族館では今後のプランとして、施設の改修も視野に入れていくと書かれていた。
このように飼育下にいる生物の扱いについては、野生下の状況を参考にしたり、その環境に近づけることは重要なのだろう。その意味で、『どうぶつと動物園』で、両環境にいるウミガラスを並べて特集することには、大きな意味があると思われる。この記事は、葛西臨海水族園の飼育展示係の方によって書かれていた。
ところでこの機関誌の最後の方に英語ページが1ページあり、この号の目次の英語訳や、主要な記事の概要が英語で説明されていた。これも今の時代には大事なことかもしれないし、意味あるものだと感じた。葛西臨海水族園のウミガラスがbumblefoot(趾瘤症)の問題を抱えていること、その解決法として餌やりの方法を変えたことが、単刀直入に述べられているのが印象的だった。日本語の記事は圧倒的に文章量が多いこともあるが、もう少し柔らかな入りをしている。
このように見てきて、実際のところ、機関誌と動物園の実体がイコールかどうかはわからないが、動物園の思想を伝える手段として、このメディアが有効に働き、動物園の健全さを伝えることに貢献しているのは間違いない。
動物園のライオンと野生のシカをつなぐプロジェクト
前回のポストで紹介した科学コミュニケーターの大渕希郷さんが、大牟田市動物園で現在進行中の面白い試みを教えてくれた。「ヤクシカZOOプロジェクト」は、科学コミュニケーターの大渕さんと大牟田市動物園のライオン班の伴和幸さん、九州大学持続可能な社会のための決断科学センター、元ヤクニク屋の田川さんの4者からなるプロジェクトだ。
大牟田市動物園HPのブログ『サファリな連中』によると、ことの始まりは屋久島に生息するヤクシカと呼ばれる小型のシカが、固有植物の減少や農業被害を起こすため、駆除の対象になっていることにあったそう。ヤクシカの肉はおいしいそうだが、その流通、利用は一部に限られている。そこで大牟田市動物園のライオン班の伴さん(ブログの書き手)が、屋久島で唯一のシカの処理場であるヤクニク屋さんに、動物園のライオンやトラ用に骨をサンプルとして提供してもらえないかお願いした。
なぜ動物たちに骨のなのか。その理由として以下のような説明があった。
1. かじることで顎(あご)が鍛えられる。
2. かじることで歯がきれいになる。
3. 舐めとるなど、食べるための本来の行動を引き出す。
4. 時間をかけて食べることで充実した時間が増える。
5. 匂いなどの新しい刺激が加わる。
なるほどー。では動物園では普段どんなものをライオンたちは食べているのだろう。伴さんによると、食べやすいサイズに切られた馬肉などを食べているそうだ。それに加えて、ビタミンなど必要に応じて栄養的な配慮もされている。しかしこの方法の場合、獲物の皮をはいだり骨から肉を引き離したりすることがないため、用意された肉をあっという間に食べきってしまうという欠点があった。その対策として、食べ物を隠したり、食べにくくしたりと工夫はしていたそうだが、野生下でライオンが餌を得るためにしていることと比べると、簡単すぎて刺激もないという。
それで、ライオンたちのために安全で、加工されていない状態の肉はないかと探していたところ、屋久島で駆除されているヤクシカのことを知った。まずは骨のサンプルで試し、それが良好だったので、シカをまるごとを与えることに挑戦。屋久島のヤクニク屋さんのシカは、きちんと衛生管理されたものだが、さらに感染症のリスクを減らすため、頭と内臓は除いてしばらく冷凍しておいたそうだ。そして動物たちに、シカがまるごと、皮付き生のままで与えられることになった。
さて大牟田市動物園にまるごとのヤクシカが届き、ライオンとトラに与えられた。その結果は? 最初は慣れないせいか、どちらも食べ始めるまでに時間がかかったようだが、翌日には骨まで含めてほぼ完食されていたとのこと。ライオン班の伴さんによると、自分で噛みちぎりながら食べると、顎や首などの筋肉が鍛えられ、また皮といっしょに食べる毛が、お腹の調子を整える面もあるそうだ。
ヤクシカが増えている(一部地域で生息密度が高くなっている)ということは今回初めて知った。またヤクシカの食害による森林生態系への影響(林野庁のHP)についても知らなかった(一般論としてシカの増加、森林被害については知っていた)。だからヤクシカの駆除そのものについては、今の時点で何か意見を言える立場にはない。ただ実際問題として、動物園のライオンたちのエンリッチメントとは関係なく、地域の状況、事情によって駆除されているシカがいること、そして殺されたシカたちが、飼育下にいる動物に与えられることで、その死が意味あるものになり得る、ということは充分理解できた。
「駆除された動物に罪はない。可能な限り活用できる方法を探して、動物園でできることは何か、考えていきたい」とライオン班の伴さんは言っている。伴さんの勤める大牟田市動物園は「動物福祉を伝える動物園」をコンセプトとするユニークな動物園で、動物福祉(動物を幸福にするために何ができるかを考え、それを実行すること)の考えをもとに、園全体で環境リッチメント(動物福祉の立場から、飼育動物の“幸福な暮らし”を実現するための具体的な方策)を進めているそうだ。大牟田市動物園は、2016年には市民ZOOネットワークより「エンリッチメント大賞」を受賞している。
大牟田市動物園HP サファリな連中
http://omutazoo.exblog.jp/28748932/
ライオンたちとシカの骨
http://omutazoo.exblog.jp/26914168/
ヤクシカZOOプロジェクト 第2弾!
http://omutazoo.exblog.jp/27374281/
ヤクシカZOOプロジェクト 第3弾!
http://omutazoo.exblog.jp/27833538/
最後に。
大牟田市動物園のライオンやトラは、飼育下にいても、まるのままの肉を食べる欲望や能力は消えていなかった。しかしそうであるなら、切った肉を与えられて食べている、という現状の意味は何か。それは本来いた場所に暮らしていないということ。葛西臨海公園のウミガラスが足の裏に魚の目状のものをつくっているのも、やはり飼育下という本来とは違う状態に置かれているからだ。すべての動物園や水族館ではないにしても、関係者が飼育している動物のために最善のことをしようと努力しているのはよく理解できる。しかしそうであっても、動物園や水族館という場で、人間の管理のもと動物を飼育していくことを心から納得するには、まだ知らなければならないこと、考えなければならないことが残っていると感じた。
取材協力
大渕希郷さん(フリーランス科学コミュニケーター)
http://www.sky.sannet.ne.jp/masato-oh/
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前回につづいて、野生動物と飼育動物が置かれている環境の違いや問題点、その未来について、さらにはそれに対する人間の見方について考えてみたいと思う。今回は三つの事例を上げて考察する。まず前回書いたことの訂正として、熊本サンクチュアリを取り上げたい。
実験室のチンパンジーを救う試み
前回、テネシーのサンクチュアリの紹介文のところで、「日本にはまだこういった施設はなく、存在自体があまり知られていない。」と書いた。しかし同様の施設は日本にもあった。京都大学野生動物研究センター熊本サンクチュアリである。ここはゾウではなく、チンパンジーの保護施設で、ウェブサイトには「熊本の宇土半島の突端近く、有明の穏やかな海に面したところに日本のチンパンジーの15%が暮らす場所がある。」と紹介されていた。またここをよく知る関係者の話では、チンパンジー以外に、ボノボも現在暮らしているそうだ。
2007年から運営され、以前は「チンパンジー・サンクチュアリ・宇土」の名だったが、2011年から現在の呼称になった。サンクチュアリのスタート当初には、約3.3ヘクタールの敷地に、医学感染実験につかわれていたチンパンジー78人が暮らしていたそうだ(2013年には59人)。因みにチンパンジーの数え方は、一般的には「匹」や「頭」がつかわれているようだが、ここでは人間と同じ「人」で呼ばれている。チンパンジーの研究で知られるイギリスの動物行動学者、ジェーン・グドールの著書(日本語訳)でも「人」がつかわれているのを見たことがある。チンパンジーは分類でいうと「ヒト科」に属している。
サンクチュアリのチンパンジーは、半数がアフリカから連れてこられ、残りはその子孫だという。日本がワシントン条約に批准する1980年以前は、合法的にチンパンジーの輸入が可能で、主として肝炎の感染実験に使用されていていたそうだ。ヒトとチンパンジーは遺伝的に非常に似ている(DNAの塩基配列で約1.23%の違い)ことから、感染実験の対象となったという。
このサンクチュアリの前身は、ある製薬会社の研究施設だったそうで、最も多いときで117人のチンパンジーがいたそうだ。1970年〜80年代、アフリカから輸入されたチンパンジーの小さな子どもたちは、健康なからだに肝炎ウィルスを接種され、気密性の保たれた小さなケージで飼育されたという。30年間という長い年月、そのようにして暮らした。1990年代後半になると、C型肝炎に加えて、遺伝子治療の研究やES細胞をつくる試みが検討され始めた。しかしこうした「侵襲度の高い」チンパンジーに与えるダメージが大きいと思われる実験に対して、反対の声があがった。反対の理由の一つには、チンパンジーが、ボノボやゴリラとともに絶滅危惧種の一つだったことがあるようだ。
こういった流れの中で、チンパンジーが実験動物としてつかわれることはよくない、と考えた研究者、動物園関係者、自然保護活動家の有志がSAGA*という非営利組織をつくり、医学感染実験の停止とサンクチュアリづくりに乗り出した。その結果、2006年に国内での医学感染実験は全面停止となり、宇土にあった医学研究施設は、チンパンジーたちが余生を暮らすためのサンクチュアリに生まれ変わった。日本における大型類人猿に関するサンクチュアの思想は、京都大学の霊長類研究所に始まり、そのノウハウが熊本サンクチュアリに取り入れられたと聞く。
2012年5月、民間の医学研究施設から、3人のチンパンジーがサンクチュアリに移籍されたことで、かつて国内にいた136人の医学感染実験用チンパンジーがついにゼロになった、とサンクチュアリのサイトには記されていた。サンクチュアリにいるチンパンジーの中には、その後動物園に引き取られていく者もあり、また動物園からサンクチュアリにやってくる者もあるという。
チンパンジーをつかった感染実験の成果として、アメリカでC型肝炎ウィルスが発見されるなど、人間の健康への一定の貢献があったのは事実のようだ。しかし代わりに別の生き物が、その代償を払った。人間の「人間以外の動物」への見方が現在とは違った時代、そして動物の輸出入に制限がなかった時代が過去にあり、サンクチュアリはその時代の負の遺産を引き受ける活動をしてきたことになる。経緯など詳しいことはわからないが、実験の現場だったと思われる施設が、保護施設として再出発したことは衝撃であり、また適切な判断と実行が、「現状を変えることは可能だ」という希望をもたらしたことは、日本社会にとって大きいと思われる。
*SAGA(サガ/Support for African/Asian Great Apes)とは、CCCC(1986年にアメリカ・シカゴ科学院に結集した世界中のチンパンジー研究者がつくった「チンパンジーの自然保護と飼育のための委員会」)の精神を受け継いだ組織で、アフリカ・アジアに生きる大型類人猿を支援している。研究者だけでなく、一般の人々にも開かれた誰でも参加できる「集い」となっている。
SAGAのウェブサイト
https://www.saga-jp.org/ja/saga_exp.html
熊本サンクチュアリの詳細はこちら。
http://langint.pri.kyoto-u.ac.jp/ai/ja/k/070.html
動物園の広報活動
この1月に上野動物園(東京動物園協会)の友の会に入った。公益財団法人・東京動物園協会は、上野動物園を中心に、多摩動物公園、葛西臨海水族園、井の頭自然文化園の4園を委託運営する団体である。友の会に入った理由は、ここの機関誌である『どうぶつと動物園』を購読してみたかったから。年4回発行されるこの機関誌は、一般書店やamazon(マーケットプレイスを含む)では手に入らない。入手先はこの団体のみで、友の会の会員になって初めて読むことができる(動物園園内ではギフトショップで販売している)。
入会後とどいたのは『Animals and Zoos / Winter 2018』と副題のついた、A4判より少し小さな50ページ弱の美しい本だ。表紙は多摩動物公園のタイリクオオカミ。3頭のオオカミが顔を上に向けて遠吠えしている。野生のオオカミのようにも見えるショットだ。現在多摩動物公園には9頭のオオカミが暮らしているという。今年は戌年ということで、オオカミが表紙に選ばれたそうだ。
本のつくりをまず見てみよう。特別変わったことをしているわけではないが、デザインや使用している紙など、感じよく作られていて好感がもてた。奥付を見て納得した。アートディレクションとデザインのところに、有山達也、アリヤマデザインストア(旧版の『クーネル』のデザインスタッフ)とあった。質の高い、適切なデザイナーを撰択しているところに、機関誌を大事にし、良いものしようとしていることが感じられた。発行所は東京動物園協会、編集委員長は上野動物園の園長、所在地は上野動物園内になっている。
さて中身の印象だが、これもバランスのとれた堅実なつくりで、編集方針もなるほどというものだった。記事は、施設内にいる動物のニュースを伝えるだけでなく、関係する野生動物や家畜動物にも触れられている。全体として、動物園は野生動物につながっている(あるいはその逆も)、という印象を生み出していた。科学的アプローチとしては、最近死んだ井の頭自然文化園のゾウの「はな子」の骨格標本製作後に得た、歯についての解説が写真入りで掲載されていた。それ以外にも、海外の動物園のニュースや動物に関する本のブックレビューなど、興味深い記事があった(読んでみたい本が何冊かあった)。
記事の中に、野生と水族館のウミガラスのレポートが一つずつあった。野生のウミガラスの方は、北海道の天売島における繁殖についてで、ペンギンに似た容姿のこの海鳥は、人口300人の島の観光資源の一つでもあるようだった。しかし近年、繁殖のためにやって来るウミガラスが減少し、環境省がかかわる保護増殖計画が進められているという。というのも、以前には近隣の他の島にもやって来たこの海鳥は、今では天売島のみとなり、この島でも50年前には8000羽来ていたものが現在は数十羽にまで減っているとか。絶滅危惧種にも指定されているそうだ。
レポートでは保護増殖事業の取り組みの内容が、詳しく説明されていた。繁殖コロニーと呼ばれる崖のくぼみにある繁殖地(以前は島内に複数あったのが現在は1箇所のみ)に、ウミガラスを誘引して繁殖させるのが試みの一つである。具体的には、デコイ(ウミガラスの模型)による誘引、スピーカーをつかったウミガラスの鳴き声による誘引、捕食者対策とビデオによるモニタリングなど。捕食者というのはハシブトガラスやオオセグロカモメなどで、2011年からエアライフルによる捕獲をしているとのこと。しかしオオセグロカモメも天売島で繁殖する海鳥であるため、捕獲場所を限定し、こちらの海鳥の繁殖状況も同時にモニタリングしていると書かれていた。この記事の執筆者は、環境省の自然保護官の方だった。
一方水族館のウミガラスの方は、葛西臨海水族園における飼育について。この水族館では、ウミガラスの足の裏に魚の目のようなものができるという長年の課題をかかえていた。「趾瘤症(しりゅうしょう)」という病状で、飼育下では水中より陸地で過ごす時間が長いことがその原因と考えられた。飼育下では、たとえばゾウも床面の状態の違いから、野生のゾウには起こらない足や関節の病状をもつことが多い。
葛西臨海水族園では、ウミガラスが陸上とプールにいる時間や時間帯を調査し、餌のやり方に工夫を加えた。これまで主として陸上に置き餌していたのを、プール内に投げ餌する割り合いを増やすことで、水中にとどまる時間を増やそうとした。野生下では繁殖のとき以外、ほとんどの時間を海上で過ごすウミガラスの習性にならったのだ。モニタリングしたところ、この方法により、ウミガラスの水中で過ごす時間がかなり増えたという。ただし一定の効果は見られたものの、他にも問題があることが判明した。野生のウミガラスを観察したところ、繁殖地の地面は断崖絶壁の凹凸の激しいところで、水族館のような平坦なところを歩くことは、野生ではあまりないことがわかったのだ。飼育下の平坦な地面が趾瘤症を起こしている可能性があることから、水族館では今後のプランとして、施設の改修も視野に入れていくと書かれていた。
このように飼育下にいる生物の扱いについては、野生下の状況を参考にしたり、その環境に近づけることは重要なのだろう。その意味で、『どうぶつと動物園』で、両環境にいるウミガラスを並べて特集することには、大きな意味があると思われる。この記事は、葛西臨海水族園の飼育展示係の方によって書かれていた。
ところでこの機関誌の最後の方に英語ページが1ページあり、この号の目次の英語訳や、主要な記事の概要が英語で説明されていた。これも今の時代には大事なことかもしれないし、意味あるものだと感じた。葛西臨海水族園のウミガラスがbumblefoot(趾瘤症)の問題を抱えていること、その解決法として餌やりの方法を変えたことが、単刀直入に述べられているのが印象的だった。日本語の記事は圧倒的に文章量が多いこともあるが、もう少し柔らかな入りをしている。
このように見てきて、実際のところ、機関誌と動物園の実体がイコールかどうかはわからないが、動物園の思想を伝える手段として、このメディアが有効に働き、動物園の健全さを伝えることに貢献しているのは間違いない。
動物園のライオンと野生のシカをつなぐプロジェクト
前回のポストで紹介した科学コミュニケーターの大渕希郷さんが、大牟田市動物園で現在進行中の面白い試みを教えてくれた。「ヤクシカZOOプロジェクト」は、科学コミュニケーターの大渕さんと大牟田市動物園のライオン班の伴和幸さん、九州大学持続可能な社会のための決断科学センター、元ヤクニク屋の田川さんの4者からなるプロジェクトだ。
大牟田市動物園HPのブログ『サファリな連中』によると、ことの始まりは屋久島に生息するヤクシカと呼ばれる小型のシカが、固有植物の減少や農業被害を起こすため、駆除の対象になっていることにあったそう。ヤクシカの肉はおいしいそうだが、その流通、利用は一部に限られている。そこで大牟田市動物園のライオン班の伴さん(ブログの書き手)が、屋久島で唯一のシカの処理場であるヤクニク屋さんに、動物園のライオンやトラ用に骨をサンプルとして提供してもらえないかお願いした。
なぜ動物たちに骨のなのか。その理由として以下のような説明があった。
1. かじることで顎(あご)が鍛えられる。
2. かじることで歯がきれいになる。
3. 舐めとるなど、食べるための本来の行動を引き出す。
4. 時間をかけて食べることで充実した時間が増える。
5. 匂いなどの新しい刺激が加わる。
なるほどー。では動物園では普段どんなものをライオンたちは食べているのだろう。伴さんによると、食べやすいサイズに切られた馬肉などを食べているそうだ。それに加えて、ビタミンなど必要に応じて栄養的な配慮もされている。しかしこの方法の場合、獲物の皮をはいだり骨から肉を引き離したりすることがないため、用意された肉をあっという間に食べきってしまうという欠点があった。その対策として、食べ物を隠したり、食べにくくしたりと工夫はしていたそうだが、野生下でライオンが餌を得るためにしていることと比べると、簡単すぎて刺激もないという。
それで、ライオンたちのために安全で、加工されていない状態の肉はないかと探していたところ、屋久島で駆除されているヤクシカのことを知った。まずは骨のサンプルで試し、それが良好だったので、シカをまるごとを与えることに挑戦。屋久島のヤクニク屋さんのシカは、きちんと衛生管理されたものだが、さらに感染症のリスクを減らすため、頭と内臓は除いてしばらく冷凍しておいたそうだ。そして動物たちに、シカがまるごと、皮付き生のままで与えられることになった。
さて大牟田市動物園にまるごとのヤクシカが届き、ライオンとトラに与えられた。その結果は? 最初は慣れないせいか、どちらも食べ始めるまでに時間がかかったようだが、翌日には骨まで含めてほぼ完食されていたとのこと。ライオン班の伴さんによると、自分で噛みちぎりながら食べると、顎や首などの筋肉が鍛えられ、また皮といっしょに食べる毛が、お腹の調子を整える面もあるそうだ。
ヤクシカが増えている(一部地域で生息密度が高くなっている)ということは今回初めて知った。またヤクシカの食害による森林生態系への影響(林野庁のHP)についても知らなかった(一般論としてシカの増加、森林被害については知っていた)。だからヤクシカの駆除そのものについては、今の時点で何か意見を言える立場にはない。ただ実際問題として、動物園のライオンたちのエンリッチメントとは関係なく、地域の状況、事情によって駆除されているシカがいること、そして殺されたシカたちが、飼育下にいる動物に与えられることで、その死が意味あるものになり得る、ということは充分理解できた。
「駆除された動物に罪はない。可能な限り活用できる方法を探して、動物園でできることは何か、考えていきたい」とライオン班の伴さんは言っている。伴さんの勤める大牟田市動物園は「動物福祉を伝える動物園」をコンセプトとするユニークな動物園で、動物福祉(動物を幸福にするために何ができるかを考え、それを実行すること)の考えをもとに、園全体で環境リッチメント(動物福祉の立場から、飼育動物の“幸福な暮らし”を実現するための具体的な方策)を進めているそうだ。大牟田市動物園は、2016年には市民ZOOネットワークより「エンリッチメント大賞」を受賞している。
大牟田市動物園HP サファリな連中
http://omutazoo.exblog.jp/28748932/
ライオンたちとシカの骨
http://omutazoo.exblog.jp/26914168/
ヤクシカZOOプロジェクト 第2弾!
http://omutazoo.exblog.jp/27374281/
ヤクシカZOOプロジェクト 第3弾!
http://omutazoo.exblog.jp/27833538/
最後に。
大牟田市動物園のライオンやトラは、飼育下にいても、まるのままの肉を食べる欲望や能力は消えていなかった。しかしそうであるなら、切った肉を与えられて食べている、という現状の意味は何か。それは本来いた場所に暮らしていないということ。葛西臨海公園のウミガラスが足の裏に魚の目状のものをつくっているのも、やはり飼育下という本来とは違う状態に置かれているからだ。すべての動物園や水族館ではないにしても、関係者が飼育している動物のために最善のことをしようと努力しているのはよく理解できる。しかしそうであっても、動物園や水族館という場で、人間の管理のもと動物を飼育していくことを心から納得するには、まだ知らなければならないこと、考えなければならないことが残っていると感じた。
取材協力
大渕希郷さん(フリーランス科学コミュニケーター)
http://www.sky.sannet.ne.jp/masato-oh/