野生と飼育のはざまで(5)
ここまでと同様、以下の記事は現時点での知見をもとに書きました。気づいた間違いや新たな発見、見解は、そのつど後の記事で更新していきたいと思っています。
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「獣害」と日本人の暮らし、自然環境
シカの増加による農作物の被害がひどい、生態系への悪影響が心配だ、森林景観が悪化している、という話はとてもよく耳にする。駆除して個体数を減らし、人間が管理することで、被害や影響をなくす解決法が盛んに言われているようだ。メディアから研究者、環境省や林野庁など、目にする情報のほとんどはその方向のものに見える。
わたしも最近まで、シカは「異常なほど」に増加しており、直接的に生活レベルで打撃を受けている農家などが、駆除をしてほしいと願うのは仕方のないことかな、と思ってきた。しかし一方で、シカの増加 → 対処的な駆除 → 問題解決、という思考法がいいものなのか、合っているのか、それ一辺倒でいいのか、多少の疑問はもっていた。いつかきちんと調べてみたいと思っていた。
そもそも何でシカは増えたのだろうか? そこには人間の直接的、間接的な関与はないのだろうか。駆除の前に(あるいは駆除しつつ)、そこをはっきりさせないと、本質的な解決にはならないのでは、というのが素人考えながらぼんやり感じていたことだ。なんとなく浮かんだのは、シカの生息環境の変化ではないか、ということ。シカの生息地の環境が変われば、生態も個体数も当然変わるだろう、と。
しかしこの話題を誰かとすれば、まず最初に出てくるのは大抵「捕食動物がいなくなったからでしょう」という指摘だ。オオカミが絶滅した、それでシカが増えたというわけだ。わかりやすい。確かにオオカミは絶滅しているので、関連性があるように見える。しかしこの説が、シカの増加の原因としてまったく当てはまらないことを、揚妻直樹さんという北海道大学(北方生物圏フィールド科学センター・和歌山研究林)の研究者の論文で発見した。
揚妻さんの論文『シカの異常増加を考える』によれば、オオカミが絶滅したのは、北海道で1890年ごろ、本州では1905年ごろだと言う。一方でオオカミが生存していた時期にも、シカはたくさん生息していたという事実があり、もしオオカミの生存とシカの個体数が関係あるのなら、絶滅後まもなくから、シカが爆発的に数を増やすことが想像される。シカは毎年子を生み、非常に繁殖力の高い動物だからだ。しかしシカが実際に数を増やしたのは(正確に言えば、一時極端に数を減らした時期を挟んで、それを回復させたのは)100年もたってからのことだ。つまりシカが「異常に増加している」と言われるようになった1990年代以降ということになる。
このことからオオカミの絶滅とシカの増加には相関関係がないことがわかる。「オオカミの絶滅とシカの増加」という事実を調べ、検証してみればわかる無関係性が、まことしやかに広く信じられてきたことには驚くばかりだ。それもこれだけ世の中で「シカ害」が問題視されている中で、なのだから。本当にこの問題を真剣に考えているのだろうか?という疑問が浮かんでくる。
面白いのは環境ジャーナリストの石弘之氏が、『野生動物の反乱』という記事の中で、オオカミ絶滅に関する揚妻説を取り入れながらも(おそらく同じ北海道大学にいた関係か)、米国のイエローストーン国立公園でのオオカミ再導入の例をあげ、「私もこの放獣に立ち会ったが、生態系を回復させたことは間違いない」と結論づけていることだ。あれれっ、オオカミの絶滅とシカの増加に関連性がないと認めつつ、その方法論を肯定するのか? 思考が噛み合ってないように思う。
さて揚妻説の中で、さらに驚くべきことは、この問題の大前提である「シカが異常に増えている」という事実認識自体に疑問を投げかけていることだ。揚妻氏によると、確かに1990年代からシカの数が増えている箇所は全国レベルで多いが(減っていたり、絶滅に瀕している地域もある)、それはそれ以前の1970年代、1980年代と比べたときのことであり、明治時代にまで遡って比べれば、見え方はまったく違ってくるという。生態系を見ていくときは、10年、20年レベルではなく、100年以上の長いレンジで比べる必要があるそうだ。
その見方でいくと、明治初期のシカの数は、少なく見積もっても、現在とほぼ同じくらいと推定されるらしい。北海道、長野、紀伊山地、屋久島など地域によって、増減する年代のずれはあるものの、多かったものが一時的に激減し、その後回復したという経緯は同じだという。どの地域でも、1960年代ー1970年代には、シカは数を減らしていた。明治初期のシカの個体数を推定するために、揚妻氏は次のような方法をとったという。
1.シカに関する古い文献や記述から推測
2.民俗学的情報から推測
3.狩猟統計から推定
たとえば3については、1873年から1882年までの10年間の捕獲数の記録をもとに、この数が達成されるには、最低でも各年に何頭以上シカが生息していたかを推定したそうだ。その推定によれば、1873年当時、最低でも40~50万頭のシカが北海道に生息していたと見ることができるという。揚妻氏によれば、大雪やオオカミなどの捕食動物による死は計算に入れていないので、実際はもっと多かったはずとのこと。この数字は、2005年の北海道発表データである40~60万頭とほぼ同じであることを指摘していた。(江戸時代の獣害については、林野庁の鳥獣被害対策ガイドでも触れられている/この記事の最後に引用*1)
つまり「シカは最近数を爆発的に増やした」というより、1960年代から2、30年間、減らしていた数を、1990年代以降に劇的に回復させた、と受け取ったほうが見方として信ぴょう性が高いということだ。
「シカは最近、異常に数を増やしている」という見解が間違いであるとすれば、この問題を今後どう考えていったらいいのか。農作物への被害は現実のものだ。それはすぐにでも解決すべき問題だろう。しかし駆除さえしていればいいのか、という問題が一つ、またこの問題を根本的に考えるなら、もし元々シカは日本列島に数多く住んでいたのなら、昔はどうしていたのかを考えてみる必要があるだろう、というのがもう一つ。
前述の揚妻氏の調査では、駆除したからといって、シカが数を減らしつづけるものではないことがわかっているそうだ。シカ害の原因として「猟師の数が減った」という指摘があるそうだが、調査では猟師の数は確かに減っているが、シカの捕獲数は増えているという。一人当たりの捕獲量が増えているということだ。揚妻氏の考えでは、農地減少によって広葉樹林が発達するなどの理由で、食物生産性が高まれば、生息個体数の3割の駆除をかけても、翌年には回復されるという。しかし農林水産省の見解は依然「人間が駆除しない限り、シカは増えつづける」というもののようだ。
また揚妻氏は、シカの生息密度と植物への被害量は必ずしも比例しないと言っている。様々な要因で、密度が低くても、被害が大きいことはあるそうだ。
明治初期には今と同じくらいの数、シカが生息していたというのが本当なら、当時の人はどのようにして暮らしていたのだろう。当時の人もシカの害と戦っていた、というのが揚妻氏の考えだ。「鹿垣」が残っているのもその証拠だと言う。
しし‐がき【▽鹿垣/×猪垣】竹や枝つきの木で粗く編んだ垣。獣が田畑に侵入するのを防ぐためのもの。また、戦場で敵を防ぐのにも用いた。鹿砦(ろくさい)。鹿矢来。《季 秋》「―の門鎖し居る男かな/石鼎」(デジタル大辞泉)
ししがき【鹿垣】① 枝のついた木や竹で作った垣。田畑に鹿や猪などの侵入するのを防ぐもの。 [季] 秋。② 砦とりでの周りに設けて防御用にした垣。鹿砦ろくさい。(大辞林)
しし垣江戸時代に九州長崎や中国地方、近畿地方、瀬戸内地方の島々で多く作られた石塁、土塁がこのように呼ばれている。あたかも万里の長城のように土を焼いて作ったものを並べて築いたものもある。(ウィキペディア)
長崎地方の池田町の三都半島のしし垣は全長約200メートルあり、最も高い所で1.6 メートル、幅(厚み?)は60センチメートルあり、現在もほぼ完全な形で残る。瀬戸内の小豆島には、万里の長城のミニ版ともいうべき延長120キロに及ぶ土塁と石垣の鹿猪垣(ししがき)がある。(同)
広島県呉市安浦町には、中国地方でも最大級とされる全長約6.5キロの鹿垣の遺構が、山あいに点在しているという。1812年ごろ、村人総出で鹿垣工事が行なわれていたという記事もあった。(シシ垣ネットワーク)
鹿垣というのは初めて知ったが、つくられたものの規模の大きさ、村人総出での大規模工事だったことなどから考えて、当時の農被害は相当なものだったのかもしれない。
いずれにしても、明治時代、シカは数が多く、多大な農被害を起こしていたのではないか。そして当時の人々は、鹿垣を張り巡らせることで戦っていた。その後、何らかの理由でシカは数を減らし、1990年代になって何らかの理由で数が回復して、元に戻ったのだ。つまり「異常なほどに増えた」のではなく、昔の数に「戻った」ということ。これが揚妻氏の推測であり、わたしも認めたいと思う。このシカの数の増減に関する何らかの理由、についてはあとでまた書く。
ここで思うのは、昔の人々が、シカに苦しめられながらも、鹿垣で抵抗していたのはどうしてか、ということ。駆除では防ぎきれない、という理由もあったかもしれない。しかし、(これはわたしの推測に過ぎないが)昔の人は、人と野生動物が共存して暮らしいることを(たとえ被害を受けても)仕方のないこと、動物も生きているのだから当然と受け止めていたのではないか。今の人間は、口では自然環境の大切さや、人間以外の生きものとの共生と言うが、被害が人間に及び、利害関係がはっきりしたときの許容範囲は、昔より狭くなっているのかもしれない。
「Prevent conflicts with deer(シカとの対立を防ぐには)」という記事を、MassWildlife(マサチューセッツ州のエネルギーや環境問題を扱う部署)のサイトで読んだ。リード文には「住民がシカによる作物や景観の被害を減らし、またシカとの衝突事故をなくすためのヒント」とあった。まず最初に、「作物や植物の害が、シカによるものかどうかをよく確認すること」とあり、シカは上あご切歯がないので、枝の折られ方はギザギザで、ウサギやウッドチャックがかじったときのように滑らかできれいな切り口にならない、とあった。こういうことを最初に書くのは、知識を提供するためでもあるが、態度として思い込みを排し、原因についてまず正しい判断をせよ、ということを伝えているように見えた。
そのあとに「フェンスをする」「脅し戦術」「寄せつけないための工夫」とつづく。フェンスについては長期に及んで効果の高い方法、と書かれていた。脅し戦術というのは、音や光、放水などで追い払う方法。センサー付きスプリンクラーがより効果的とあった。寄せつけないためには撃退用スプレーや人間や動物の毛、尿などを直接植物に撒くこと方法があげられ、ある程度効果はあるが絶対的なものではないと書かれていた。
その次に「運転時の注意」という項目があり、この地域のシカ(オジロジカ)の生態特性が説明され、出没する季節や時間には、特に注意が必要であると書かれていた。その次には「子どものシカを見つけたら」という項目があり、子鹿の生態が説明され、そのまま放置するよう書かれていた。そして次にくるのが「ハンティング」だ。この州に住むオジロジカは大切な野生動物でもあるので、決められた猟の季節(秋と冬)と管理法が設定されている、とあった。規則に沿った安全なハンティングは、シカの数を減らし、被害を小さくする有効な手段であるとし、狩りの趣味をもたない土地の所有者は、猟の季節にハンターが、自分の土地で狩りをすることを許可するよう勧めていた。
このMassWildlifeの記事から読み取れることは何か。野生動物の生態をまず知り、それに合った防御法を見つけ、また猟の季節に狩りをして数を減らすことも方法の一つとし、しかし同時にシカを守ることも視野に入れている。つまり人間とシカは共存して生きている、という前提があるように感じた。シカの害を被ることは苦しい、しかしシカも同じ生きものだ、生きる権利はある、だからある程度の被害は受け入れるしかなく、それが同じ地球に生存しているということだ、といったような。駆除、駆除、駆除、、、、の一点張りではない。「害を及ぼすものは排除する」という思想とは違うものを感じた。またハンティングという欧米の文化の意味も、少しわかった気がした。
さて最後に、1960年代、70年代に起きたシカの激減の理由について、揚妻氏の推測を紹介する。揚妻氏によると、第二次大戦の影響下で物資がなくなり、人々が森に行って木や植物を大量に採取したことで、1930年代末から丘陵地帯が変化し、質的に低下していったことがあるという。また森林の伐採面積が急激に増えたことで、1950年代から1970年代にかけて、広葉樹より成長の早い針葉樹の植林が増え(木材利用できるまでに針葉樹は40~60年、広葉樹は150~200年かかる)、森林面積の4割以上をしめるようになった。それにより野生動物の生息地としての質が落ちてしまい、この時期、中・大型の動物が減少した、としている。
そもそも江戸時代から明治にかけての日本の里山は、現在のような緑におおわれた場所でなく、ハゲ山状態のやせた土地が広がっていたという。貧しい生活の中で、人々は山から薪、炭材を採集し、落ち葉や草を集めて家畜の肥料にしていた。そのような環境では野生動物は暮らしていけず、人の住むところまで出てくることがなかった。その後、化学燃料や化学肥料が一般的になり、人間による森の利用が減ったことで、森林の生産性が高まり、野生動物が暮らせる環境に変化した。昔ハゲ山だったところも、徐々に広葉樹林が回復して緑におおわれ、動物にとって住みやすい条件が整っていった。それにより野生動物が里山まで降りてくるようにもなった。これが揚妻氏の推論だ。
つまり、人間が良きものと考える「緑におおわれた豊かな里山」というものが、野生動物にとっても生産性の高い土地となり、やって来る価値のある場所となる。昔のようにハゲ山状態で土地がやせていれば、動物も来ることがないのだ。そうだとすれば、緑豊かな里山の景観が理想であっても、獣害を防ぐには里山をハゲ山状態に保つことが一つの解決策になり得る。
緑豊かな生産性の高い場所は、人間にとっても野生動物にとっても、生きやすいということであれば、そこで共存するしかない。動物による被害を受けたくない、ということであれば、奥山から動物が出てこないよう、緩衝地帯である里山をやせた土地にしておく。そういう環境設定、環境管理の仕方が必要なのかもしれない。考え方としてあると思うし、揚妻氏によれば、これまで農地の環境管理については検討すらされてこなかったという。
「シカの異常増加」は生態系を壊している、と一般に言われているようだ。人間が想定する「健全な自然」から外れてくるというわけだ。しかし健全な自然、あるいは正常な生態系とは何を指すのだろう。人間にとって心地いい自然を確保するために、手を入れ管理して、「自然」を人間の手でつくりあげる? 生態系とはそういうものなのか。そういう観点から考えると、野生動物を「駆除する」ことは、農被害の対策としてはあり得るだろうが、「自然生態系の保全」には馴染まない考え方だ、と揚妻氏は言う。わたしもその通りだだと思う。
引用*1:江戸時代以前から、野生鳥獣による農業被害は食糧生産上の重要な課題となっていたので、駆除としての狩猟は早くから行われていました。五代将軍綱吉による生類憐みの令の時代ですら、野生鳥獣の狩猟は普通に実施されていました。(森林における鳥獣被害対策のための-森林管理技術者のためのシカ対策の手引きガイド - 平成24年3月版より)
上記でリンク付けしたもの以外の参考文献:
日本列島の野生生物と人 池谷和信編 世界思想社 2010年
生物科学 2013年11月号 農文協