20180323

野生と飼育のはざまで(5)


ここまでと同様、以下の記事は現時点での知見をもとに書きました。気づいた間違いや新たな発見、見解は、そのつど後の記事で更新していきたいと思っています。
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「獣害」と日本人の暮らし、自然環境

シカの増加による農作物の被害がひどい、生態系への悪影響が心配だ、森林景観が悪化している、という話はとてもよく耳にする。駆除して個体数を減らし、人間が管理することで、被害や影響をなくす解決法が盛んに言われているようだ。メディアから研究者、環境省や林野庁など、目にする情報のほとんどはその方向のものに見える。

わたしも最近まで、シカは「異常なほど」に増加しており、直接的に生活レベルで打撃を受けている農家などが、駆除をしてほしいと願うのは仕方のないことかな、と思ってきた。しかし一方で、シカの増加 → 対処的な駆除 → 問題解決、という思考法がいいものなのか、合っているのか、それ一辺倒でいいのか、多少の疑問はもっていた。いつかきちんと調べてみたいと思っていた。

そもそも何でシカは増えたのだろうか? そこには人間の直接的、間接的な関与はないのだろうか。駆除の前に(あるいは駆除しつつ)、そこをはっきりさせないと、本質的な解決にはならないのでは、というのが素人考えながらぼんやり感じていたことだ。なんとなく浮かんだのは、シカの生息環境の変化ではないか、ということ。シカの生息地の環境が変われば、生態も個体数も当然変わるだろう、と。

しかしこの話題を誰かとすれば、まず最初に出てくるのは大抵「捕食動物がいなくなったからでしょう」という指摘だ。オオカミが絶滅した、それでシカが増えたというわけだ。わかりやすい。確かにオオカミは絶滅しているので、関連性があるように見える。しかしこの説が、シカの増加の原因としてまったく当てはまらないことを、揚妻直樹さんという北海道大学(北方生物圏フィールド科学センター・和歌山研究林)の研究者の論文で発見した。

揚妻さんの論文『シカの異常増加を考える』によれば、オオカミが絶滅したのは、北海道で1890年ごろ、本州では1905年ごろだと言う。一方でオオカミが生存していた時期にも、シカはたくさん生息していたという事実があり、もしオオカミの生存とシカの個体数が関係あるのなら、絶滅後まもなくから、シカが爆発的に数を増やすことが想像される。シカは毎年子を生み、非常に繁殖力の高い動物だからだ。しかしシカが実際に数を増やしたのは(正確に言えば、一時極端に数を減らした時期を挟んで、それを回復させたのは)100年もたってからのことだ。つまりシカが「異常に増加している」と言われるようになった1990年代以降ということになる。

このことからオオカミの絶滅とシカの増加には相関関係がないことがわかる。「オオカミの絶滅とシカの増加」という事実を調べ、検証してみればわかる無関係性が、まことしやかに広く信じられてきたことには驚くばかりだ。それもこれだけ世の中で「シカ害」が問題視されている中で、なのだから。本当にこの問題を真剣に考えているのだろうか?という疑問が浮かんでくる。

面白いのは環境ジャーナリストの石弘之氏が、『野生動物の反乱』という記事の中で、オオカミ絶滅に関する揚妻説を取り入れながらも(おそらく同じ北海道大学にいた関係か)、米国のイエローストーン国立公園でのオオカミ再導入の例をあげ、「私もこの放獣に立ち会ったが、生態系を回復させたことは間違いない」と結論づけていることだ。あれれっ、オオカミの絶滅とシカの増加に関連性がないと認めつつ、その方法論を肯定するのか? 思考が噛み合ってないように思う。 

さて揚妻説の中で、さらに驚くべきことは、この問題の大前提である「シカが異常に増えている」という事実認識自体に疑問を投げかけていることだ。揚妻氏によると、確かに1990年代からシカの数が増えている箇所は全国レベルで多いが(減っていたり、絶滅に瀕している地域もある)、それはそれ以前の1970年代、1980年代と比べたときのことであり、明治時代にまで遡って比べれば、見え方はまったく違ってくるという。生態系を見ていくときは、10年、20年レベルではなく、100年以上の長いレンジで比べる必要があるそうだ。

その見方でいくと、明治初期のシカの数は、少なく見積もっても、現在とほぼ同じくらいと推定されるらしい。北海道、長野、紀伊山地、屋久島など地域によって、増減する年代のずれはあるものの、多かったものが一時的に激減し、その後回復したという経緯は同じだという。どの地域でも、1960年代ー1970年代には、シカは数を減らしていた。明治初期のシカの個体数を推定するために、揚妻氏は次のような方法をとったという。

1.シカに関する古い文献や記述から推測
2.民俗学的情報から推測
3.狩猟統計から推定

たとえば3については、1873年から1882年までの10年間の捕獲数の記録をもとに、この数が達成されるには、最低でも各年に何頭以上シカが生息していたかを推定したそうだ。その推定によれば、1873年当時、最低でも40~50万頭のシカが北海道に生息していたと見ることができるという。揚妻氏によれば、大雪やオオカミなどの捕食動物による死は計算に入れていないので、実際はもっと多かったはずとのこと。この数字は、2005年の北海道発表データである40~60万頭とほぼ同じであることを指摘していた。(江戸時代の獣害については、林野庁の鳥獣被害対策ガイドでも触れられている/この記事の最後に引用*1)

つまり「シカは最近数を爆発的に増やした」というより、1960年代から2、30年間、減らしていた数を、1990年代以降に劇的に回復させた、と受け取ったほうが見方として信ぴょう性が高いということだ。

「シカは最近、異常に数を増やしている」という見解が間違いであるとすれば、この問題を今後どう考えていったらいいのか。農作物への被害は現実のものだ。それはすぐにでも解決すべき問題だろう。しかし駆除さえしていればいいのか、という問題が一つ、またこの問題を根本的に考えるなら、もし元々シカは日本列島に数多く住んでいたのなら、昔はどうしていたのかを考えてみる必要があるだろう、というのがもう一つ。

前述の揚妻氏の調査では、駆除したからといって、シカが数を減らしつづけるものではないことがわかっているそうだ。シカ害の原因として「猟師の数が減った」という指摘があるそうだが、調査では猟師の数は確かに減っているが、シカの捕獲数は増えているという。一人当たりの捕獲量が増えているということだ。揚妻氏の考えでは、農地減少によって広葉樹林が発達するなどの理由で、食物生産性が高まれば、生息個体数の3割の駆除をかけても、翌年には回復されるという。しかし農林水産省の見解は依然「人間が駆除しない限り、シカは増えつづける」というもののようだ。

また揚妻氏は、シカの生息密度と植物への被害量は必ずしも比例しないと言っている。様々な要因で、密度が低くても、被害が大きいことはあるそうだ。

明治初期には今と同じくらいの数、シカが生息していたというのが本当なら、当時の人はどのようにして暮らしていたのだろう。当時の人もシカの害と戦っていた、というのが揚妻氏の考えだ。「鹿垣」が残っているのもその証拠だと言う。

しし‐がき【▽鹿垣/×猪垣】竹や枝つきの木で粗く編んだ垣。獣が田畑に侵入するのを防ぐためのもの。また、戦場で敵を防ぐのにも用いた。鹿砦(ろくさい)。鹿矢来。《季 秋》「―の門鎖し居る男かな/石鼎」(デジタル大辞泉) 
ししがき【鹿垣】  枝のついた木や竹で作った垣。田畑に鹿や猪などの侵入するのを防ぐもの。 [季] 秋。  砦とりでの周りに設けて防御用にした垣。鹿砦ろくさい。(大辞林) 
しし垣江戸時代に九州長崎や中国地方、近畿地方、瀬戸内地方の島々で多く作られた石塁、土塁がこのように呼ばれている。あたかも万里の長城のように土を焼いて作ったものを並べて築いたものもある。(ウィキペディア) 
長崎地方の池田町の三都半島のしし垣は全長約200メートルあり、最も高い所で1.6 メートル、幅(厚み?)は60センチメートルあり、現在もほぼ完全な形で残る。瀬戸内の小豆島には、万里の長城のミニ版ともいうべき延長120キロに及ぶ土塁と石垣の鹿猪垣(ししがき)がある。(同)

広島県呉市安浦町には、中国地方でも最大級とされる全長約6.5キロの鹿垣の遺構が、山あいに点在しているという。1812年ごろ、村人総出で鹿垣工事が行なわれていたという記事もあった。(シシ垣ネットワーク)

鹿垣というのは初めて知ったが、つくられたものの規模の大きさ、村人総出での大規模工事だったことなどから考えて、当時の農被害は相当なものだったのかもしれない。

いずれにしても、明治時代、シカは数が多く、多大な農被害を起こしていたのではないか。そして当時の人々は、鹿垣を張り巡らせることで戦っていた。その後、何らかの理由でシカは数を減らし、1990年代になって何らかの理由で数が回復して、元に戻ったのだ。つまり「異常なほどに増えた」のではなく、昔の数に「戻った」ということ。これが揚妻氏の推測であり、わたしも認めたいと思う。このシカの数の増減に関する何らかの理由、についてはあとでまた書く。

ここで思うのは、昔の人々が、シカに苦しめられながらも、鹿垣で抵抗していたのはどうしてか、ということ。駆除では防ぎきれない、という理由もあったかもしれない。しかし、(これはわたしの推測に過ぎないが)昔の人は、人と野生動物が共存して暮らしいることを(たとえ被害を受けても)仕方のないこと、動物も生きているのだから当然と受け止めていたのではないか。今の人間は、口では自然環境の大切さや、人間以外の生きものとの共生と言うが、被害が人間に及び、利害関係がはっきりしたときの許容範囲は、昔より狭くなっているのかもしれない。

Prevent conflicts with deer(シカとの対立を防ぐには)」という記事を、MassWildlife(マサチューセッツ州のエネルギーや環境問題を扱う部署)のサイトで読んだ。リード文には「住民がシカによる作物や景観の被害を減らし、またシカとの衝突事故をなくすためのヒント」とあった。まず最初に、「作物や植物の害が、シカによるものかどうかをよく確認すること」とあり、シカは上あご切歯がないので、枝の折られ方はギザギザで、ウサギやウッドチャックがかじったときのように滑らかできれいな切り口にならない、とあった。こういうことを最初に書くのは、知識を提供するためでもあるが、態度として思い込みを排し、原因についてまず正しい判断をせよ、ということを伝えているように見えた。

そのあとに「フェンスをする」「脅し戦術」「寄せつけないための工夫」とつづく。フェンスについては長期に及んで効果の高い方法、と書かれていた。脅し戦術というのは、音や光、放水などで追い払う方法。センサー付きスプリンクラーがより効果的とあった。寄せつけないためには撃退用スプレーや人間や動物の毛、尿などを直接植物に撒くこと方法があげられ、ある程度効果はあるが絶対的なものではないと書かれていた。

その次に「運転時の注意」という項目があり、この地域のシカ(オジロジカ)の生態特性が説明され、出没する季節や時間には、特に注意が必要であると書かれていた。その次には「子どものシカを見つけたら」という項目があり、子鹿の生態が説明され、そのまま放置するよう書かれていた。そして次にくるのが「ハンティング」だ。この州に住むオジロジカは大切な野生動物でもあるので、決められた猟の季節(秋と冬)と管理法が設定されている、とあった。規則に沿った安全なハンティングは、シカの数を減らし、被害を小さくする有効な手段であるとし、狩りの趣味をもたない土地の所有者は、猟の季節にハンターが、自分の土地で狩りをすることを許可するよう勧めていた。

このMassWildlifeの記事から読み取れることは何か。野生動物の生態をまず知り、それに合った防御法を見つけ、また猟の季節に狩りをして数を減らすことも方法の一つとし、しかし同時にシカを守ることも視野に入れている。つまり人間とシカは共存して生きている、という前提があるように感じた。シカの害を被ることは苦しい、しかしシカも同じ生きものだ、生きる権利はある、だからある程度の被害は受け入れるしかなく、それが同じ地球に生存しているということだ、といったような。駆除、駆除、駆除、、、、の一点張りではない。「害を及ぼすものは排除する」という思想とは違うものを感じた。またハンティングという欧米の文化の意味も、少しわかった気がした。

さて最後に、1960年代、70年代に起きたシカの激減の理由について、揚妻氏の推測を紹介する。揚妻氏によると、第二次大戦の影響下で物資がなくなり、人々が森に行って木や植物を大量に採取したことで、1930年代末から丘陵地帯が変化し、質的に低下していったことがあるという。また森林の伐採面積が急激に増えたことで、1950年代から1970年代にかけて、広葉樹より成長の早い針葉樹の植林が増え(木材利用できるまでに針葉樹は40~60年、広葉樹は150~200年かかる)、森林面積の4割以上をしめるようになった。それにより野生動物の生息地としての質が落ちてしまい、この時期、中・大型の動物が減少した、としている。

そもそも江戸時代から明治にかけての日本の里山は、現在のような緑におおわれた場所でなく、ハゲ山状態のやせた土地が広がっていたという。貧しい生活の中で、人々は山から薪、炭材を採集し、落ち葉や草を集めて家畜の肥料にしていた。そのような環境では野生動物は暮らしていけず、人の住むところまで出てくることがなかった。その後、化学燃料や化学肥料が一般的になり、人間による森の利用が減ったことで、森林の生産性が高まり、野生動物が暮らせる環境に変化した。昔ハゲ山だったところも、徐々に広葉樹林が回復して緑におおわれ、動物にとって住みやすい条件が整っていった。それにより野生動物が里山まで降りてくるようにもなった。これが揚妻氏の推論だ。

つまり、人間が良きものと考える「緑におおわれた豊かな里山」というものが、野生動物にとっても生産性の高い土地となり、やって来る価値のある場所となる。昔のようにハゲ山状態で土地がやせていれば、動物も来ることがないのだ。そうだとすれば、緑豊かな里山の景観が理想であっても、獣害を防ぐには里山をハゲ山状態に保つことが一つの解決策になり得る。

緑豊かな生産性の高い場所は、人間にとっても野生動物にとっても、生きやすいということであれば、そこで共存するしかない。動物による被害を受けたくない、ということであれば、奥山から動物が出てこないよう、緩衝地帯である里山をやせた土地にしておく。そういう環境設定、環境管理の仕方が必要なのかもしれない。考え方としてあると思うし、揚妻氏によれば、これまで農地の環境管理については検討すらされてこなかったという。

「シカの異常増加」は生態系を壊している、と一般に言われているようだ。人間が想定する「健全な自然」から外れてくるというわけだ。しかし健全な自然、あるいは正常な生態系とは何を指すのだろう。人間にとって心地いい自然を確保するために、手を入れ管理して、「自然」を人間の手でつくりあげる? 生態系とはそういうものなのか。そういう観点から考えると、野生動物を「駆除する」ことは、農被害の対策としてはあり得るだろうが、「自然生態系の保全」には馴染まない考え方だ、と揚妻氏は言う。わたしもその通りだだと思う。


引用*1:江戸時代以前から、野生鳥獣による農業被害は食糧生産上の重要な課題となっていたので、駆除としての狩猟は早くから行われていました。五代将軍綱吉による生類憐みの令の時代ですら、野生鳥獣の狩猟は普通に実施されていました。(森林における鳥獣被害対策のための-森林管理技術者のためのシカ対策の手引きガイド - 平成24年3月版より)

上記でリンク付けしたもの以外の参考文献:
日本列島の野生生物と人 池谷和信編 世界思想社 2010年
生物科学 2013年11月号 農文協



20180309

野生と飼育のはざまで(4)


注)2月9日の『野生と飼育のはざまで(3)』のつづきです。ここまでと同様、以下の記事は現時点での知見をもとに書きました。気づいた間違いや新たな発見、見解は、そのつど後の記事で更新していきたいと思っています。
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スポーツハンティングが野生動物を救う?

前回、自閉症である自分の特質を生かして、動物の行動の原因を探究した動物学者、テンプル・グランディンの研究や考えを紹介した。その中で野生動物保護について、アフリカの大型動物の狩猟を売りにした「サファリツアー」を、一つの解決策として認めている部分があった。グランディンの著書では「サファリツアー」の言葉がつかわれていた(日本語訳/原著をGoogle Booksで”safari tour”で検索したが出てこなかった)が、適切な言葉は「スポーツハンティング」あるいは「トロフィーハンティング」と呼ばれているものだ。単にサファリツアーと言った場合は、狩猟をしない鑑賞ツアーも含まれるからだ。

グランディンの主張は、「レイヨウやイボイノシシを狩るツアーは、大きなお金を地元に落とし、住民の生活を支えている。これにより私有地に住む動物が狩られて犠牲になるが、この程度の犠牲は、地主に自分の土地を野生動物の生息地にしようという意欲をもたらすなら必要かもしれない」といったものだった(「私有地」については後述する)。つまり国による適正な管理があり、野生動物の数が維持できるのなら、こういったハンティングは非常に大きなお金を地元に落として地元を潤わせるので、結果として住民に野生動物を保護しようという気を起こさせ、適切な解決策になるということだ。

これをグランディンの本(『動物が幸せを感じるとき:新しい動物行動学でわかるアニマル・マインド』)で読んだときは、なるほど、こういう考えもあるのかと思った。正に功利主義の実践といったところか。グランディンがこのように考えるようになった要因として、1977年のケニアにおける狩猟全面禁止政策があったようだ。グランディンは著書の中で次のように書いている。

ケニアの環境保護論者マイク・ノートン=グリフィスによると、ケニアでは、1977年以降、国立公園以外の地域で大型の野生動物が6割から7割、いなくなった。77年といえば、野生動物の狩猟や農場での営利目的の飼育を禁止する法律がケニアで制定された年だ。これは偶然の一致ではない。この法律のせいで動物が姿を消し、事態が悪化したのだ。

グランディンの考えによると、野生動物の飼育が禁止されたことにより、牧草地を維持する費用がまかなえなくなった牧場主が、放牧地を農地に変えた。つまり保護目的の法律が、実際には正反対のことを促した、というわけだ。これを読んだときには、そういうこともあるのかと納得した。

今回これを書くにあたって、1977年以降、ケニアの野生動物がどれくらい減ったのか、調べてみようとした。その中にあった釧路公立大学の小林聡史教授の『ケニアにおける野生動物による被害の現状』 には次のように書かれていた。

セレンゲティ国立公園における個体数センサス*の記録がある. それによるとヌ ーの個体数は1971年に約70万頭だったのが ,1977 年には140万頭にまで増え,1986年にはやや減少 して114万頭と推定されている。一方,サバンナシマウマの個体数はほぼ安定していて20万頭前後, トムソンガゼルは1972年に約70万頭,1986年には 約57万3,000頭と推定されている。(*センサス=実態調査)

これを読むかぎり、グランディンの参照する「大型の野生動物が6割から7割いなくなった」という数値は当てはまらない。「国立公園以外の地域で」とグランディンは書いているので、外と中では事情がまったく違うのだろうか。ちなみに小林聡史教授の調査はケニアの国立公園・保護区の内外に及んでおり、「メルー県におけるゾウによる耕作地への侵入」と題された調査マップでは、国立公園の外の地点が示されていた。

もう一つの資料として、日本自然保護協会『自然保護』(1985年)のサイトの記述をあげたい。

1982年、IUCN(国際自然保護連合)の報告ではアフリカ全土に120万弱のアフリカゾウが生息、うちケニアには6万5000頭となっている。これだけいれば十分と思われるかも知れないが、1969年にケニアにゾウは16万9000頭いたと推定されている。14年間に61.5%が失われたことになるのだ。(『ケニアの野生動物 鳴りやまぬ赤信号』より)

この数値では、確かにゾウが1982年にはかなりの数、減っていることがわかる。前述のヌーやサバンナシマウマの調査と、このゾウの調査では結果がかなり違う。どちらも大型動物だが、種によって違いが出るのか、それとも調査地域による差なのか。グランディンの記述では「大型の野生動物」としか書かれていないので、そのあたりがわからない。

いずれにしてもグランディンは、ケニアでの野生動物の減少と野生保護政策(法律)を結びつけ、因果関係があると言っている。そしてこういった数を減らしてしまうような保護政策ではなく、もっと実質的に効果のある野生動物保護が必要だと訴えているのだ。その理論の延長線上に、経済効果をもたらす、スポーツハンティングによる解決策があげられている。

ところでわたしは、グランディンの著書を読んだのちに、アフリカ地域研究が専門の安田章人氏のSynodosへの寄稿を読んだ。そしてスポーツハンティングによる野生動物保護の論理に疑問をもった。安田氏は、カメルーンをはじめ、アフリカを中心とする狩猟現場において10年を超えるフィールドワークを行ない、人と野生動物の共存について研究している人である。
シノドス:2018.02.08 Thu


安田氏の寄稿を読んだあと、グランディンの主張の中でまず気になったのは、「大きなお金を地元に落とし、住民の生活を支えている」といった中で使われている「地元」や「住民」といった言葉が指す対象だった。「地元」には狩猟区のある国の政府やそこでハンティングを営む観光業者(または土地所有者/地元エリート層)が含まれるだろう。「住民」の方は、安田氏の調査によると2種類あって、狩猟区周辺に住んでいる経済的利益を受けにくい村民と、スポーツハンティングのためにキャンプに雇用され、恩恵を受けている村民があるという。キャンプに雇用された人々は働く機会を得たことで、農業などで得られる収入よりずっと大きな金銭を手にできる。しかしこの雇用も、動物のトラッカーや料理人、整備工のような要職に就いている一部の者(高額な賃金)と、ポーターや洗濯、掃除などをする雑用係(低額の賃金)に分かれ、料理人、整備工などは地元ではなく、都市部からやって来た教育を受けた者であるという。

地元への恩恵という意味では、確かに、ハンティングにかかる税金の一部が、地元住民に還元されるようにはなったようだ。これは一つの前進と言っていい。カメルーンでは、狩猟区の借地代(観光業者が国に払っている借地料)の10%を周辺の村落へに分配することが法律で決まり(1994年)、遅れて2000年以降に実施されるようになった。しかしそれが地域内で平等に分配されているわけではないという。カメルーンのある村では、ラミド(王)を長とする伝統的な権力構造があり、それがヨーロッパからの観光業者と結びついて、有力者が分配利益を享受してしまうことがあるらしい。

このように地元、あるいは住民への利益還元と言った場合、それが行なわれていても、必ずしも平等にみんながそれを享受できているわけではないようだ。地元の権力者が、外からやって来た観光業者(昔は植民者)と協力してものごとを決めたり、利益をわけあう構造は、ハンティングに限らずアフリカでは昔から見られたことだと思う。

二つ目に気になったことは、グランディンの言う「地主」や「牧場主」のプロフィールだ。彼女が例としてあげてるケニアなどの東アフリカでは、ハンティングはゲームランチ(game ranch)と呼ばれる私有地で行なわれている。私有地の持ち主は、植民地時代の19世紀にやって来たヨーロッパからの移民にルーツをもつ人々だという。彼女の本を読んでいるかぎり、彼らもアフリカの地元民の一部のように受け取れたが、その人たちと被植民者だった元々この地に住んでいた原住民とは、分けて考えた方がいいのではないかと思った。

これは安田氏が調査区としていたカメルーンや南アフリカでも同じだが、これらの地域では、土地は基本的に国が所有していて、ヨーロッパからの観光業者や、南アフリカであればアフリカーンスのようなオランダ系植民者の末裔たちが、ハンティング用狩猟区として国から借りて観光業を営んでいる。昔の帝国主義に倣ったような、ヨーロッパの事業者や旧植民者による地元民への支配、という構造がベースにあるように感じられた。

グランディンの言う、ハンティングにより大きなお金が地元に落ち、住民が潤い、結果その資源となる野生動物の保護に地元が積極的になる、という論理は理にかなっているように見えて、実際のところ地元とは何を指すのか、住民とは誰なのか、を見ていくとき、必ずしも理想的とは言えない状態に思えてくる。

狩猟区周辺(あるいは狩猟区内)に居住する村人には、狩猟に関して制限がかかっているという。たとえば食料として、あるいは生業として狩りをするにも、昔ながらの植物資源による猟具による、小さな動物を獲ることしか許可されていない。ハンティングのための狩猟区を「保護する」という理由なのか。もし住民がハンターと同じように大型動物を狩猟したい場合は、狩猟ライセンスを取得し、獲った動物に対して狩猟税を納めなければならない。しかしこれらのライセンスや狩猟税は、裕福な海外からのハンター対象に設定されているため、貧しい地元民に支払えるような金額ではないという。つまり地元民は、実質的に、自分たちの住む地域の自然へのアクセスが大きく制限されている。

安田氏はSynodosの寄稿の中で「土地を所有あるいは賃借している観光事業者は、狩猟に限らず、トロフィー・ハンティングの妨げとなる農耕や牧畜も禁止しているため、地域住民による自然資源に対するアクセス権のすべてが剥奪されている」と述べていた。このような状況の中では、地元民による「密猟」が起きても不思議はないように思えてくる。

野生動物の数を減らさないため、ヨーロッパからの(あるいは植民者末裔の)事業者、牧場主にハンティングのための狩猟区を与え、海外からの観光客を呼びこんで狩猟をさせ、地元にお金を落として経済的に潤う、それが野生動物の保護につながる。この一見win-winなシナリオの中で、抜け落ちているのが、ハンティングに関わらない(雇用されない)一般住民たちではないか。ときに元々住んでいた居住地から、狩猟区確保のため、村民が強制移住させられることもあるという。

安田氏によると、こういった不利益に地元民がなかなか抵抗できないのは、一つには村の伝統的な権力構造(王政のような)があるためだという。近代化が進んでいないから、と言えるだろうが、そのような土地では、植民的なシステムは一般に機能しやすい。

狩猟区を管理・運営する政府や観光業者の主張によれば、一般地元民は、野生動物についての知識がなく、持続可能な狩猟をすることができない、という。また「地域住民は、われわれに雇用されているのに、密猟をおこなっている」と批難する。一方、住民の方は、「自分たちが食べる分だけでよいから狩猟させてほしい」と主張する。

安田氏は、「計画的に野生動物を利用するスポーツハンティングとそれにかかわる保全政策」の正当性が強く訴えられる割には、科学知に基づいた「高い生態学的な精度による野生動物管理」は実現していない、と見ているようだ。

ここで政府、観光業者(あるいは狩猟区の所有者)と地元民の対立構造を俯瞰するため、アフリカにおけるスポーツハンティングの歴史を、安田氏の著書『護るために殺す?:アフリカにおけるスポーツハンティングの「持続可能性」と地域社会』(勁草書房、2013年)から要約してみよう。
  1. 中世の西洋社会では、特権階級の娯楽としてスポーツハンティングが発展した。
  2. 19世紀になって帝国主義の象徴となり、植民地支配の道具となった。野生動物の減少。
  3. 19世紀後半には、アメリカを先駆けとして国立公園が出来、アフリカでも植民地政策により「手つかずの自然」を残すことが使命となった。猟銃保護区、国立公園、狩猟制限が植民地政府によって設定され、狩猟は西洋人のみできるという制限がかけられた。
  4. 1970年代になって、狩猟への倫理的批判が社会的に起きる。
  5. 1980年代にエコツーリズムの思想が生まれ、サファリツアーなど住民参加型の保全が提唱される。
  6. 1970年代に倫理的批判を受けたスポーツハンティングだが、地域に利益をもたらす効果が大きいということで、「生態的な持続可能性と経済的な豊かさ」を実現するツールとして復権する。
  7. 自然保護行政を支える柱として、狩猟枠の拡大、捕獲枠の拡大が行なわれ、野生動物管理の強力な資金供給源となる(サファリツアーの300倍の税収をもたらす)。
政府や観光業者の「地域住民による資源(野生動物)利用は非持続的である」の見解のため、地元民は狩猟を制限され、違反したものは「密猟者」として逮捕や罰金を科せられている。「住民参加型保全」が掲げられ、一定の利益分配の拡充は図られているものの、安田氏によると、野生動物保全やスポーツハンティングの会議に、狩猟区内に住む一般村民が呼ばれたことはほとんどない、という。近年狩猟区に設定されたある村では、村民が、自分の居住地がスポーツハンティングの狩猟区に設定されたことも、観光業者の存在も知らなかった、という例があげられていた。 

「野生と飼育のはざまで(3)で紹介したグランディンの動物の心理へのアプローチには、素晴らしいものがあると思ったが、アフリカのスポーツハンティングにおける「野生動物の保全と住民への経済便益」のシナリオに関しては、最終的に疑問が解消されることはなかった。

野生動物の数を減らさないための合理的な、あるいは功利主義的な解決法として、スポーツハンティング、あるいはトロフィーハンティングが有効な手段だと納得できるためには、何が変わればいいのだろう。スポーツハンティングでは、西洋社会の富裕層がアフリカを訪れ、何百万円もの大金をつかって野生動物を狩る。地元のトラッカーを雇うということは、ハンター自身には狩りの能力(野生動物の性質や生態を知って追いかける)が、必ずしも求められないのかもしれない。つまり人と野生動物の関係性は、「片方がもう一方を娯楽で狩る」の枠を出ることがないのかもしれない。だからハンターたちは、仕留めた後の成果として狩った動物と記念写真を撮り、頭部でトロフィーを作り持ち帰る。その心情は、中世の特権階級や植民地時代の支配層の人々のものと、さして変わらないようにも見える。このような人々をビジネスの対象として呼び込む「持続可能な野生動物の保全」は、ハンティングに大金をつかう人々を「利用している」とも言える。

一般的に日本人には、娯楽としてのハンティングというものが、文化的に馴染みがない。ハンティングによって野生動物を守るというアイディアが、グランディンのようにすんなり受け入れられないのは、そういった文化の違いがあるのかもしれない。日本人の場合、富裕層でなくとも、海外のリゾート地などで最高級のホテルに泊まることがある。最高のホスピタリティで対応されるわけだが、日本で中程度の一般市民であれば、多分、それを素晴らしいと感激しつつもどこか居心地の悪さ、ここは自分の居場所ではないのでは、という感覚をもってしまうのはあり得ることだ。そのような文化的、歴史的違和感は、アフリカの植民地的ハンティング文化(広大な自然の中に、自家発電による給湯・冷暖房完備の客室、欧米客の好みを満たすための菜園などを備えたキャンプがあり、そこに逗留して狩りを楽しむ)に感じるものと近いように思う。

ハンティングを事業化する国の政府や観光業者が言うように、地元民は野生動物を持続的な方法で扱うことができない、というのが事実であるのなら、彼らへの啓蒙や教育が必要かもしれない。その上で日々の食料や生業のために、住民が野生動物にアクセスできるようにすることも検討されるべきだ。またハンティングによって得られる利益が、公平に分けられるシステムもなくてはいけない。21世紀という時代においては、地球上のどこの地域であっても、支配と被支配の構造の中で人が生きねばらないことを正当化するのは難しい。野生動物保全にとっても、その方法は好ましくないと思うし、「持続可能な方法」でもないだろう。

もっと言えば、もしハンティングを観光資源の一つとする場合も、現在の植民地主義的なものとは違った方法論があってもいい。ヨーロッパ由来の欧米式ハンティング観光ではなく、地元発想的なジミな狩猟体験だ。野生動物を知り、近しくなることが狩猟につながるような。地元民の家または運営する簡易な宿泊所に泊まって、地元の生活を体験しながら、野生動物を追う体験をする。これでは経済効果は期待できないし、野生動物保護につながらない? 第一そんなツアーに参加する欧米人はいないだろうって? 確かにその通りかもしれない。求められているのは、欧米式の高級リゾート&娯楽としてのハンティングなのだから。

この先10年、20年、野生動物の「住民参加型保全」はアフリカで、どのように実行されていくのだろう。昔ながらの階級社会的、欧米人思考スタイルから生まれたものではない、真に未来的で持続可能な野生動物保護へと変化していくことを願って、引き続き見守っていきたい。