感性と論理:音楽の場合、文学の場合
いつ頃のことか覚えていないが、感性と知性というのは切り離せないものだ、と気づくようになった。おそらく30歳より前ということはないと思う。仕事上で得た体験からなのか、音楽を学んでいる中で得たことなのか、はっきりとは言えない。その両方かもしれない。
ダン・タイソンというベトナム出身のピアニストが、一般にアジアのピアニストたちは直観や感性で弾く傾向が強く、論理が少ない、と言っているのを本で読んだことがある。論理=知性ではないが、知性の一部ではあると思う。西洋の音楽家は、論理を演奏に反映させているのだろうか。そのとき論理とは何を指しているのか。
非常に感性が優れている場合、それとほぼ釣り合うような知性の裏づけがあるのではないか、また知性が非常に高いと思われるときは、たいてい感性もそれに見合うように備わっているのではないか、そんな感じがする。感性といわれるもの、知性といわれるものは、ある能力の一面を指している、という気がする。
たとえば感性を磨きたいと思う人は、何をしたらいいのか。知性を高めたいという人は何をとっかかりにするべきなのか。いやこれらのことは結果であって、目的とすべきことではない、ということかもしれない。
音楽を例にとってみよう。西洋の古典音楽とかかわる場合、他人の演奏を聴く、他人の楽曲を自分で演奏する、自分で楽曲をつくる、といった行為が思い浮かぶ。この中の他人の楽曲を自分で演奏する、を考えてみよう。ピアノを習う人は、何からはじめるのだろう。楽譜の読み方、指の使い方、まず最初は片手から。右手をやって、左手をやる。それがうまくいくと両手を合わせる。こんな順番だろうか。ハ長調からはじめて、ト長調、ニ長調と#の数を増やしていき、違う調性の曲を弾く。長調の次に短調も学ぶ。このあたりのことは、小学校の音楽の授業でもやるだろう。
わたしの子どもの頃の経験でいうと、だんだん難しい曲集へと移っていき、ソナチネという小さなソナタ形式の曲を習うようになる。ソナチネの曲集には、簡単なソナタも入っている。ハイドンとかモーツァルトもいくつかは混じっているだろう。ここから何を習うか。基本は初期の練習と同じで、楽譜を読み、それを弾く。先生が音や拍の間違いを指摘するかもしれない。また強弱記号のところで、フォルテとあれば「ここは強く」と言うかもしれない。しかし練習の仕方は初期の頃と大きくは変わらない。楽譜を読む、それを弾く。
こうやって弾くことがピアノを弾くということなのか、音楽を勉強するということなのか。わたしの場合、とくに疑問をもたずにこのようにして続け、中学生になってからやめた。多くの子どもも、このくらいの年齢でやめているかもしれない。やめるまでの数年間で覚えたことは、楽譜を読むこと、指の使い方を覚えて曲を弾くこと、繰り返し練習してときに暗譜で弾けるようにすること、このようなことだ。この中のどこに音楽があったのか、、、と考えてみる。もちろん音楽を演奏しているのだから、音楽はあっただろう。では音楽の知性の部分、論理を学ぶことはあっただろうか。
今考えると、子ども時代の音楽修業は、音楽というものの輪郭をなぞっただけだったように感じる。とはいえ、その基礎訓練は後になって、まったく役に立たなかったというわけではない。複雑な楽譜を瞬時にグラフィックとして読み取る能力、鍵盤と指の親和性、指の強さ、柔軟さ、機敏さ、音の高さを聞き取る聴力といったピアノを弾く上で基本になることは、充分役にたつと言えると思う。もし大人になって初めて、楽譜を読むことから、指を鍵盤に置くことからはじめていていたら、と想像すれば、役に立っていたことを認めないわけにはいかない。
しかし、そこで音楽の何を学んだか、どのような論理を音楽の中に見つけたか、という知の側面に焦点をあてれば、答えられることはあまりない。ピアノを操ることは学んだけれど、音楽を探求するところまではいかなかった。大人になってから、もう一度ピアノを学んでみようと思いたち、先生を探した。どういうという具体的なものはなかったが、音楽教育やピアノ専門誌などを見てヒントを得ようとした。そしてこの人ならという作曲家で、ピアノ教師をしているO先生をみつけた。
O先生のところで学んだのは、ピアノを弾く技術に加えて、音楽の中身でもあった。というか弾く技術とは、音楽の中身のことでもあった。最近までそれが「音楽の論理」だとは気づいていなかった。しかし音楽の論理について考えはじめ、振り返って考えてみると、当時習っていたのは音楽の中身=論理だったのだと思う。それはO先生が作曲をする人であったことと、やはり関係があったと思う。
何が論理だったか、と言えば、それはハーモニーであり、リズムに関することであり、曲の要素や構成についてだった。O先生のところで学ぶ者は、音大のピアノ科の卒業生であっても、初めの一歩から、つまり片手の練習からはいる。ゆっくり片手ずつの練習からはじめる。ハーモニーやリズムを学ぶために、白紙に近いからだの状態が必要だからだ。ピアノを長年弾いてきた人ほど、いろいろなものをその弾き方の中に付着させている。一回それを取り払うために、片手からはじめる。すでにピアノが弾けてしまう人ほど、ピアノの弾き方を知らない状態にもどすのは難しい。無意識にやってしまっていることがたくさんあるからだ。
片手ずつ、ゆっくり、一本一本の指を素直に鍵盤におとす、その音を聴く、聴いて修正する、というようなことからわたしも始めた。ハーモニー(和声)の論理、それに伴う感覚というものを、O先生のところで学ぶまで、強く意識したことはなかった。それは実にシンプルなことなのだ。I(ドミソ)の和音、IV(ファラド)の和音、V(ソシレ)の和音をどのような響きで弾いたらいいか、ということなのだが、こんな単純なことを実践の中で、論理としても感性としても学んだことがなかった。言葉であらわすなら、ドミソの和音は、非常に安定性のある落ちてそこにとどまるような響き。ファラドの和音は、広がりのある解放性を帯びた響き。ソシレは引き締まった緊張感のある響き。たとえば曲の最後でメロディが「シー・ドー」で終わるとき、Vの緊張からI の安定への運動の中で大きな解放が生まれる。音楽用語で「解決」と言っているものだ。なーんだ、そんなこと聞いたことある、という人がいるかもしれない。しかしこれを実践の中で、ピアノを弾くことの中で、どれくらいわかってやっているかは問われることだ。
バイエルのようなやさしい初歩の曲集をやることで、こういった西洋音楽の論理を身につけていく。バス(左手で弾く一番低い音)の響きをよく聞いて、意識しながら、その上に右手のメロディを響きから外れないように乗せていく。このとき、右手のメロディは意識的に歌わせるのではなく、バスを聴きながら探るような気持ちでそっと乗せていく。この方法でうまく弾けるようになると、ハ長調のごく単純な曲も、一つの作品として美しく弾くことができる。初歩の段階では、響きを探しながら弾くということがとても重要なのだ。右手はメロディであることが多いので、気をつけないと、旋律に引っ張られて、何らかの「表現」をしようとして、押しつけたような弾き方になってしまいがちだ。これをやらないようにして、ただただバスに耳を澄ませ、どんな音を上に乗せるのが適切か探り弾きする。ピアノを始めたばかりの人にとって簡単なことではないが、10年、20年、ピアノの訓練を受けてきた人にはさらに難しい場合もある。
もう一つ、リズムについて見てみよう。西洋の古典音楽には3拍子、4拍子、といった拍子がたいていある(もっと古い時代にはなかったし、20世紀以降にはないものもあるが)。日本の古典音楽にはこのような拍子によるリズムの刻みは基本的にみられない。日本では、このリズムは、元々文化的な意味で人のからだに備わっていないものなので(ハーモニーもそうだが)、意識して身につける必要がある。知の部分、論理が必要になってくる。
日本の手拍子や伝統音楽では、始まりの1拍目はなんの予告もなくはじまる。パンッ。ポンッ。しかし西洋の古典音楽では、1拍目がはじまる前にすでに音楽が循環しているようなところがある。アウフタクトといって、曲の始まりの第1拍目が強拍(下拍)でないものがある。3拍子の曲の第3拍目が頭にきているような場合、ン、1、2、3のようにはじまる。ンのところが前の小節の3拍目にあたる。楽譜の1拍目、2拍目には音がないが、からだの中でその部分を演奏していて初めて、第3拍目の音にはいれる。その3拍目を、最初の音だからといって1拍目のように強拍(下拍)で演奏したら、そのあとがうまく流れなくなる。アウフタクトはドイツ語で、英語だとupbeat(上拍)といい、上向きという意味がある。アウフタクトの曲では、ンのところで上げておいて、第1拍目(下拍)でストンと落ちてくるというリズムになっている。
これが西洋の古典音楽の基本リズムになっているが、子ども時代どれくらいこのことを意識してピアノを弾いていただろう。もしかしたら教わったかもしれない。でも認識として残っていない。音楽の論理として身にはついてなかったと思う。知識として、論理として知らなかった場合、実践はおぼつかないものになる。一見、楽譜はなめらかに弾けているようでいて、リズムの循環はまわっていないことになる。これも当たり前のことのようでいて、ピアノ教室などで案外実践されていないことかもしれない。教師にアウフタクトの知識があっても、子どもに教えるときに、どのように実践させるかはまた別の話だったりもする。
わたしはO先生のところで学ぶようになって、初めてアウフタクトを意識し、それを実践する練習をした。すぐにはできなかった。簡単なものからはじめて、だんだんという感じだったと思う。
このようにハーモニーとかリズムといった、古典音楽の論理を知識として知るようになり、それを練習によって実践、取得したところで、音楽のもっている感性の部分に触れることができるようになったのだと思う。
一般に「感性」という言葉は、あいまいな使われ方をしていることが多いかもしれない。何かを感じとる力が感性だとすれば、それは何によって養われるのだろう。知覚は誰もがある程度もっているとして、それは認識と結びついているだろうか。聞こえていることと、聞きとることは同じなのだろうか。
最近経験したことを一つ例にとって紹介したい。『ソニック・デザイン:音と音楽の特質』というアメリカの現代作曲家が書いた本を手に入れた。理由は、著者の1人(ポッツィ・エスコット)に興味をもったこと、そして音楽の論理を幅広い実例の中で学べそうだったから。グレゴリオ聖歌から現代に至る西洋音楽を基本にしてはいるものの、中国やインド、インドネシア、日本、アメリカ先住民など、普通このような理論書では同じ枠組の中で語られない音楽作品に対しても、同じやり方で(西洋音楽の解析法ではないやり方で)探索されているところに惹かれた。
その序章で扱われていたのが、ショパンの『前奏曲 第20番』だった。たまたまこの曲は、この1、2年よく弾いていた。この本の解析を読んで、第一段目の4小節で使われている特徴的な旋律の線とリズムが、2段目の5小節以降の内声部に隠れていることがわかった。それを意識する練習法として、ピアニストのコルトーの助言が添えられていた。それに従って何回か練習してみたところ、耳に聞こえてくるものが明らかに変化した。
この曲は終始、上下(右手・左手)6つの和音が重なったままゆっくり動いていくもので、一番上の(高い)音が旋律になっている。こうした場合、6つの音の重なりは耳に「聞こえて」はいるが、意識は主に一番上のメロディーに引き寄せられている。コルトーの練習法によって、2段目を繰り返し弾いてみたところ、ついに、6つの和音を重ねたままで、上から二つ目の内声部の音がくっきりと「聞きとれる」ようになった。そして1段目の特徴的な旋律とリズムを、その中にはっきり意識した。これは聞きとる耳が変化したことと、それにより演奏も変化したことの証しだ。耳が変わることで、演奏も変わる。
このような経験から、感性は、論理の影響を大きく受けるということがわかる。論理=知によって耳が変わり、その聞きとりによって感性に影響が及ぶ。『ソニック・デザイン』は訳せば「音(波)の設計」といったところだろうか。教材となっている楽曲を五線譜だけでなく、方眼のグラフィックの中に音を置いて、どのような音域がつかわれているかを視覚化したり、各声部がどのような線の動きを見せているか、音のフィールドがどう動くかなどの検証をしている。音を空間認識の中で捉えるという方法は、わたしにとって初めて出会うものだ。
また音域ということに対して、この本を読むまであまり意識していなかったことが判明した。『ソニック・デザイン』で取り上げられていた『前奏曲 第20番』は、ピアノの音域の約半分しか使われていない。音程でいうとC1~E♭5までということになる。実はこの音程の呼び方も、この本を読むまで知らなかった。ピアノの一番低い音はA0(Aはハ長調のラ)、一番高い音はC8(Cはハ長調のド)。よってC1はA0から白鍵で3つ上のドにあたる。『前奏曲 第20番』はC1を最低音として、ほぼピアノの下半分の領域で弾くことになる。この本では、楽曲における音域の重要性を理解するため、同曲を2オクターブ高いところで弾くよう指示がある。ピアノのほぼ上半分(右半分)で弾くことになる。これをやってみると、まったく違う曲となってこの曲が立ち現れ驚いた。どの音域をつかうかが楽曲にとっていかに重要か、ということを身をもって、知の面、感性の面両方で知った出来事である。
音楽のような一見抽象的で捉えにくそうなメディアも、適正なやり方を踏めば、見えてくるもの、得られる論理はたくさんありそうだ。その方法は、これまでの西洋音楽理論の法則からだけ見いだせるものではないのかもしれない。音楽は感覚だけで出来上がっているわけではない。アメリカのある現代作曲家は、演奏家志望者は作曲を、作曲家志望者は演奏を、それぞれもっと学ぶべきだと言っている。19世紀には作曲家と演奏家は同じ人間であることも多く、演奏家は曲ができる道筋にもっと意識的だったらしい。20世紀以降の演奏家は、楽器の熟練者になることばかりに力を注ぐ傾向がある、と言いたいようだった。
感性と知性の関係性は、音楽にかぎらず、あらゆる創作について言えることかもしれない。平野啓一郎の『本の読み方:スロー・リーディングの実践』では、ゆっくり、探索するように、解析しながら本を読むことを勧めている。そしてその実践方法を夏目漱石、森鴎外、カフカ、そして自作もまじえた著作を例に紹介している。これは直観や感性だけで読むのではなく、論理を探したり、言葉の意味や文法を確認しながら、知の要素をつかって認識を深め、読書をしていく方法論だ。作者の視点で読む、という言い方をすれば、上の段落に書いた演奏家も作曲を、というアプローチと符合するところがある。
自己流の読み方から、改めて読書の方法そのものを考えてみることで、これまでとはまったく違った発見があるかもしれない、と著者は書いている。「構造の全体を視野に入れて読むこと」「言葉の迷路をさまようことを、方向を持った探求に転じる」というロラン・バルトの指摘を、大江健三郎の小説から紹介していた。
冒頭の知性と感性の問題にもどると、やはりこの二つは、互いに補完し合い、刺激し合う存在だという思いが再び湧いてくる。音楽や文学に近づく際、論理を煙たがったり面倒がったり、軽視する傾向があるとしたら、そのことが感性を低めることにつながる可能性がある、ということを改めて考えてみた方がよさそうだ。
最後にアメリカ出身の作曲家(そして作家)ポール・ボウルズ(1990年ー1999年)の言葉を引用する。
知性で音楽を理解できなかったら、感情など得られないですよ。そうじゃないなら、ただ音楽を浴びてるだけになる。それは音楽の聴き方じゃない。頭の中をただ通すだけのこと。一瞬一瞬なにが起きてるか正確に理解できたら、もっともっと楽しみは大きくなるでしょうね。感情であれなんであれ得るものは大きくなる。(シカゴのブロードキャスター、ブルース・ダフィーによるインタビューから)