ラジオ体操の音楽学
夏の朝、早起きして窓をあけると、どこかから微かなピアノの音が聞こえてくる。耳を澄ませてみると、ラジオ体操の音楽だ。夏休みだから、近くのどこかに子どもたちが集まって、ラジオ体操をやっているのだろうか。そういうものが今もあるのだな、と。
しばらく聞いていると、この音楽、間違いなく日本のものだという気がしてきた。西洋音楽でありながら、日本の文化の香りがとてもする。まずは拍子。聞いていたときはてっきり2拍子(4分の2拍子)かと思ったが、あとで楽譜で確かめたら4拍子(4分の4拍子)だった。確かに音の連なりを見れば4拍子に作曲されている(服部正作曲)のがわかるが、ぼんやり音を聞いていると2拍子の感じがした。
4拍子と2拍子、どう違うかと言えば、4拍子は一つの小節に強迫が二つある。1拍目は強く、2拍目は弱く、3拍目は少し強く、4拍目は弱く。2拍子は1拍目が強い。2拍子は強弱、強弱、強弱といった単純な拍の繰り返しによるリズム。行進のときのような感じと言ったらいいか。右左、右左、右左、、、のような。4拍子の方は、もう少し複雑で、音の流れに循環があると思う。1、2、3、4、の4は弱音だが、次の1につなげるため、引き上げて次の1で落とすような感じだ。4拍目にはアウフタクト感がある。
小さく聞こえてきたラジオ体操のピアノ音楽は、演奏の仕方が2拍子に近い感じがした。おそらくNHKのラジオのものだと思うが、標準的な演奏法ではないだろうか。一般に知られているラジオ体操はNHK発ということだから。そしてその2拍子っぽい演奏法は、体操の振りからきているのかもしれない、と思った。1、2、3、4、いちにーさんしィー、いちにーさんしィー、という循環する流れはあまり感じられない。1、2、3、4、いち、に、さん、し、となっていて、いち、に、いち、に、とあまり変わらない。
もし体操の振りが4拍子的だったら、演奏も4拍子らしいものになっていたかもしれない。ただラジオ体操が老若男女、日本のだれにでもマスターできる体操を目指していたとしたら、2拍子の方が適していたと考えられる。それも今の時代ではなく、20世紀前半にラジオ体操が始まった、という歴史を考えればなおのこと。振りを考案したのは遠山喜一郎さんという、ベルリンオリンピックにも出場した体操選手だそうだ。
そう聞けば、なんとなくなるほどと納得できる。体操競技とラジオ体操の動きには共通するものがあるかもしれない。ダンスではなく体操なのだ。
日本の元々の音楽、民謡や邦楽には西洋音楽でいうところの拍子の感覚はないと思う。日本には手拍子というものがあるが、あれは1拍子ではないだろうか。ラジオ体操の音楽も、1拍子と取れなくもない。手拍子と掛け声で、ラジオ体操ができそうだ。2拍子の場合も、頭の強拍をきちんと取ることが大事、といったイメージだ。
ラジオ体操が考案された約100年前の日本のことを頭に描けば、洋服はすでに入ってきてはいただろうが、まだふつうに着物をきて下駄や草履をはいていた時代。とすれば、ラジオ体操が手拍子調であったとしても不思議はない。ピアノやバイオリンより、三味線や琴、あるいは浪曲や民謡に親しんでいた時代だ。
ラジオ体操は4拍子で書かれているが、1拍子か2拍子のような趣きがある。今もそれがつかわれているということは、時代が変わって、普段聴いている音楽が変わっても、からだに馴染み深いものとして定着しているということなのか。日本人のリズム感は今も昔も変わらないということか。
そういえば、小学生がラジオ体操をダラダラやっているのを見た覚えがある。NHKのお手本の人がやっているようなテキパキした動きではなく、体操にあまり見えないような、一応振りをやってるフリのような。あれはいろんな意味で、「自分たちに合ってない」から「できない」という信号のようにも見える。
ラジオ体操ができた頃は、運動とかスポーツといったものがまだ一般に馴染みが薄く、日々の労働とは別に、健康のためにからだを動かすことはよいことだ、という考えに注目が集まったのかもしれない。そして誰もが簡単に真似できて、戸惑うことなく実行できるには、日本人のからだの中にあるリズム感である必要があったのだろう。
しかし今の子どもたちにとってはどうなのか。ダラダラやっているのも、ダサい、動きがヘン、音楽が軍隊みたい、と思ってのことかもしれない。昔ながらのラジオ体操はそのままにしておくとして、今の日本人のからだや音感に合った、ストレッチやウォーミングアップ、エクササイズに通じるラジオ体操があってもいいように思う。現在のラジオ体操のはじまりは、冒頭からテキパキしているが、もっとゆっくり始めるものでもいい。その日のからだの調子や感覚を確かめながら、筋肉のストレッチからゆっくり入り、からだが温まってきたら動きを軽快にしていくとか。
音楽も、今の子どもたちのリズム感に合ったものが作られていい。単純な2拍子の繰り返しではなく、3拍子とか、8分の6拍子とか、ときに変拍子など取り入れても面白いかもしれない。一つの曲の中で、体操の振り、動きが変わるごとに、リズムの変化があれば、一つ一つの動きがより際立ってくるかもしれない。小さな子でも、リズム変化の面白さに反応するということもあり得る。ラジオ体操(ラジオダンス? いや、ラジオでもないのかも)という考え方が基本にあったとしても、今の時代のバリエーションはいくらでもできそうだ。
テキパキ、きちっとした2拍子的な動きだけでなく、柔らかな屈伸、しなやかな伸び、シャープなステップ、緩急のある跳躍といったものを、様々なリズムの音楽にのってからだで表現することは、楽しいことではないか。
一つ一つの動きにイメージを持たせるのもいいと思う。たとえば「宇宙にむかって何か伝える」イメージで、からだを大きく、しなやかに伸ばすとか。「地面を這う小さな生き物を追いかける」イメージで、ステップを踏むとか。頭脳(イメージ)とからだ(運動)がより強く結びつけば、運動効果はあがるかもしれないし、体操に意味が生まれる。からだから脳への刺激にもなりそうだ。脳の活性化を、イメージとからだの動きによって起こす。
現在のラジオ体操に見られるような、機械的な動き、音に合わせて揃って動かすことが主な目的の軍隊調の運動ではないものの方が、今の時代を生きていく上で、応用が効きそうだ。たとえば一見関係ないように思える、外国語の習得などにも、2拍子調ではない、柔軟性のある体操の方が役立つかもしれない。
余談になるが、面白いと思ったのは、ラジオ体操の動画をYouTubeで見ていたら、ある小学校の校庭で実施されていたものは、子どもと大人が混ざっていて、その中の女性たち(上下ジャージ姿)が揃って、ラジオ体操第1の冒頭の「伸び」の次の運動(両手をサイドに振り上げながら足を開脚屈伸する)を、足を閉じて屈伸していたこと。日本人の女の人の感覚からすると、今の時代にあっても、「足を開脚」して屈伸という格好はあり得ない、またはあまりしたくない、ということか。何となくわかる気はするが、体操のときもそうなのか? トレパンはいてても?
そう考えると、1930年代、1940年代といった古い時代に、ラジオ体操で女性たちに「足(股)を開いて屈伸させる」動きは、革命的な意味があったとは言えないか、などと深読みしてしまう。スポーツとか運動というものには、女だからこういうマナーで、女性らしさを失わず、などいうものは基本的にはないはず。ある民族の持つしぐさというのは、思っている以上に意味深いのかもしれない。
しばらく聞いていると、この音楽、間違いなく日本のものだという気がしてきた。西洋音楽でありながら、日本の文化の香りがとてもする。まずは拍子。聞いていたときはてっきり2拍子(4分の2拍子)かと思ったが、あとで楽譜で確かめたら4拍子(4分の4拍子)だった。確かに音の連なりを見れば4拍子に作曲されている(服部正作曲)のがわかるが、ぼんやり音を聞いていると2拍子の感じがした。
4拍子と2拍子、どう違うかと言えば、4拍子は一つの小節に強迫が二つある。1拍目は強く、2拍目は弱く、3拍目は少し強く、4拍目は弱く。2拍子は1拍目が強い。2拍子は強弱、強弱、強弱といった単純な拍の繰り返しによるリズム。行進のときのような感じと言ったらいいか。右左、右左、右左、、、のような。4拍子の方は、もう少し複雑で、音の流れに循環があると思う。1、2、3、4、の4は弱音だが、次の1につなげるため、引き上げて次の1で落とすような感じだ。4拍目にはアウフタクト感がある。
小さく聞こえてきたラジオ体操のピアノ音楽は、演奏の仕方が2拍子に近い感じがした。おそらくNHKのラジオのものだと思うが、標準的な演奏法ではないだろうか。一般に知られているラジオ体操はNHK発ということだから。そしてその2拍子っぽい演奏法は、体操の振りからきているのかもしれない、と思った。1、2、3、4、いちにーさんしィー、いちにーさんしィー、という循環する流れはあまり感じられない。1、2、3、4、いち、に、さん、し、となっていて、いち、に、いち、に、とあまり変わらない。
もし体操の振りが4拍子的だったら、演奏も4拍子らしいものになっていたかもしれない。ただラジオ体操が老若男女、日本のだれにでもマスターできる体操を目指していたとしたら、2拍子の方が適していたと考えられる。それも今の時代ではなく、20世紀前半にラジオ体操が始まった、という歴史を考えればなおのこと。振りを考案したのは遠山喜一郎さんという、ベルリンオリンピックにも出場した体操選手だそうだ。
そう聞けば、なんとなくなるほどと納得できる。体操競技とラジオ体操の動きには共通するものがあるかもしれない。ダンスではなく体操なのだ。
日本の元々の音楽、民謡や邦楽には西洋音楽でいうところの拍子の感覚はないと思う。日本には手拍子というものがあるが、あれは1拍子ではないだろうか。ラジオ体操の音楽も、1拍子と取れなくもない。手拍子と掛け声で、ラジオ体操ができそうだ。2拍子の場合も、頭の強拍をきちんと取ることが大事、といったイメージだ。
ラジオ体操が考案された約100年前の日本のことを頭に描けば、洋服はすでに入ってきてはいただろうが、まだふつうに着物をきて下駄や草履をはいていた時代。とすれば、ラジオ体操が手拍子調であったとしても不思議はない。ピアノやバイオリンより、三味線や琴、あるいは浪曲や民謡に親しんでいた時代だ。
ラジオ体操は4拍子で書かれているが、1拍子か2拍子のような趣きがある。今もそれがつかわれているということは、時代が変わって、普段聴いている音楽が変わっても、からだに馴染み深いものとして定着しているということなのか。日本人のリズム感は今も昔も変わらないということか。
そういえば、小学生がラジオ体操をダラダラやっているのを見た覚えがある。NHKのお手本の人がやっているようなテキパキした動きではなく、体操にあまり見えないような、一応振りをやってるフリのような。あれはいろんな意味で、「自分たちに合ってない」から「できない」という信号のようにも見える。
ラジオ体操ができた頃は、運動とかスポーツといったものがまだ一般に馴染みが薄く、日々の労働とは別に、健康のためにからだを動かすことはよいことだ、という考えに注目が集まったのかもしれない。そして誰もが簡単に真似できて、戸惑うことなく実行できるには、日本人のからだの中にあるリズム感である必要があったのだろう。
しかし今の子どもたちにとってはどうなのか。ダラダラやっているのも、ダサい、動きがヘン、音楽が軍隊みたい、と思ってのことかもしれない。昔ながらのラジオ体操はそのままにしておくとして、今の日本人のからだや音感に合った、ストレッチやウォーミングアップ、エクササイズに通じるラジオ体操があってもいいように思う。現在のラジオ体操のはじまりは、冒頭からテキパキしているが、もっとゆっくり始めるものでもいい。その日のからだの調子や感覚を確かめながら、筋肉のストレッチからゆっくり入り、からだが温まってきたら動きを軽快にしていくとか。
音楽も、今の子どもたちのリズム感に合ったものが作られていい。単純な2拍子の繰り返しではなく、3拍子とか、8分の6拍子とか、ときに変拍子など取り入れても面白いかもしれない。一つの曲の中で、体操の振り、動きが変わるごとに、リズムの変化があれば、一つ一つの動きがより際立ってくるかもしれない。小さな子でも、リズム変化の面白さに反応するということもあり得る。ラジオ体操(ラジオダンス? いや、ラジオでもないのかも)という考え方が基本にあったとしても、今の時代のバリエーションはいくらでもできそうだ。
テキパキ、きちっとした2拍子的な動きだけでなく、柔らかな屈伸、しなやかな伸び、シャープなステップ、緩急のある跳躍といったものを、様々なリズムの音楽にのってからだで表現することは、楽しいことではないか。
一つ一つの動きにイメージを持たせるのもいいと思う。たとえば「宇宙にむかって何か伝える」イメージで、からだを大きく、しなやかに伸ばすとか。「地面を這う小さな生き物を追いかける」イメージで、ステップを踏むとか。頭脳(イメージ)とからだ(運動)がより強く結びつけば、運動効果はあがるかもしれないし、体操に意味が生まれる。からだから脳への刺激にもなりそうだ。脳の活性化を、イメージとからだの動きによって起こす。
現在のラジオ体操に見られるような、機械的な動き、音に合わせて揃って動かすことが主な目的の軍隊調の運動ではないものの方が、今の時代を生きていく上で、応用が効きそうだ。たとえば一見関係ないように思える、外国語の習得などにも、2拍子調ではない、柔軟性のある体操の方が役立つかもしれない。
余談になるが、面白いと思ったのは、ラジオ体操の動画をYouTubeで見ていたら、ある小学校の校庭で実施されていたものは、子どもと大人が混ざっていて、その中の女性たち(上下ジャージ姿)が揃って、ラジオ体操第1の冒頭の「伸び」の次の運動(両手をサイドに振り上げながら足を開脚屈伸する)を、足を閉じて屈伸していたこと。日本人の女の人の感覚からすると、今の時代にあっても、「足を開脚」して屈伸という格好はあり得ない、またはあまりしたくない、ということか。何となくわかる気はするが、体操のときもそうなのか? トレパンはいてても?
そう考えると、1930年代、1940年代といった古い時代に、ラジオ体操で女性たちに「足(股)を開いて屈伸させる」動きは、革命的な意味があったとは言えないか、などと深読みしてしまう。スポーツとか運動というものには、女だからこういうマナーで、女性らしさを失わず、などいうものは基本的にはないはず。ある民族の持つしぐさというのは、思っている以上に意味深いのかもしれない。