20180920

葉っぱの坑夫、秋の新刊。

この夏準備していた2冊の新刊について紹介します。一つは絵本、もう一つは小説です。どちらも葉っぱの坑夫のサイトで連載していたもので、絵本の方は、元になっている本が『南米ジャングル童話集』のタイトルで、全8話収録のテキスト中心のものとして去年出ています。今回の絵本版は、その中から『ワニ戦争』のみをとりあげた、絵を中心にしたものです。小説の方は今年の6月までサイトで連載していた『ディスポ人間』で、この全訳を紙の本と電子書籍(Kindle、Kobo)にします。

『ワニ戦争』はミヤギユカリさんの絵、角谷慶さんのデザインで、40ページ前後のフルカラーの本になります。オンデマンド印刷でフルカラーの本は初めての試みで、どのような仕上がりになるかの実験の要素もあります。アメリカのアマゾンにつづいて、日本でも最近になってフルカラーの印刷が可能になったので、これを試してみたいと思いました。ミヤギさんの絵は、ハーフトーンの少ないくっきりしたメリハリのものが多いので、うまく印刷されるのではないかと期待しています。 

『ディスポ人間』は、当初から、サイト上での連載が終わったら、本にしたいことを著者のエゼケル・アランに伝えてありました。ですので連載終了直後に、ペーパーバックと電子書籍にする話を再度もちかけ、合意事項を記した簡易な契約書をつくり、あとは出版の準備をすればいい状態になっていました。サイトで連載していたときは、翻訳もそのときそのときのものになりがちだったので、すべてをプリントして、改めて読み直すことから始めました。(通しですべてを読むこともそうですし、また画面で見ているのと、印刷した紙面で読むのでは、違う発見があります。言葉の足りないところ、誤字だけでなく、かなりの変更、微調整をしました)

『ワニ戦争』は角谷さんにデザインを任せてあるので、レイアウトや素材の扱いなど、形にする作業はありませんが、テキストを短縮する作業が最初にありました。絵本版は絵を中心に、というコンセプトなので、テキストは必要最小限にしたいと思いました。オラシオ・キローガのテキストはそれなりに長いので、思いきってバサバサッと削っていきました。絵と言葉の組み合わせで、効果が出るよう、新たなテキストをつくりました。

『ディスポ人間』の方は、読み返すことで、連載時には気づかなかったちょっとした誤訳や勘違いが2、3ありました。見つければ、サイトの方もその時点で修正を入れました。ひとたび修正の入ったテキストは、InDesignというアドビのアプリケーションで、レイアウトしていききます。文字数を数えると、26万字とかなり多く、概算で350ページ前後になるだろうと思われました。判型を小さくすると、ページ数が増え、オンデマンド印刷の場合、コストが上がってしまうので、小説にしては大きいかなとは思いましたが、『イルカ日誌』と同じサイズ(横15.6cm、縦23.4cm)にしました。これはアメリカの本の定型サイズ、6’14”、9’21”をそのままつかっています。組みが横組みなので、そして定型の方がアマゾンの機械にフィットしやいすいのではと思い、このサイズにしました。印刷機はおそらく、アメリカのものも日本のものも、ほぼ同じではないかと思います。

InDesignレイアウトは、『イルカ日誌』でつかったものをマスターとして、ほぼ同じレイアウトにしました。余白の取り方や柱のたて方といったものは、そのまま流用しました。『イルカ日誌』からマスターページを引いてくることができるので、スピーディーに作業ができます。ただ本文の書体は、今回、ゴシックを選びました。「横書きでゴシック」などという小説は、日本では他にないかもしれません。ゴシックを選んだ理由は、今回の小説は、日記や詩、手紙、民話など引用文が非常に多く、そちらは明朝体の方がふさわしいと思ったからです。また原著の『Disposable People』も、本文は太めのゴシックでした。小説のテイストとして、語りの口調として、ゴシックはふさわしいと思われました。

葉っぱの坑夫の本は、これまで出したもののほとんどが、ペーパーバックでもKindleでも横書きです。日本で出版されている日本語のほとんどは、本の種類によらず縦書きです。たとえば英語に関する本など欧文が出てくる本であっても、縦書きが優勢で、本をくるくる回しながら読むことがあります。なぜ横書きにしないのか、わたしには理由がわかりません。欧文が文中に出てくることは、最近の本では珍しくありません。一定量欧文がある場合は、横書きにした方が、読者に対して親切かなと思うのですが。しかし読者の方も、いや、日本語は縦書きで読みたい、という人も多いらしいので、多少不合理でも、縦書きが多くなっているのかもしれません。葉っぱの坑夫の考え方としては、「横であれば多くの言語が日本語と同じ並びで表記できる」ということで、合理性から横組みを選んでいます。

『ディスポ人間』はInDesignで組んだのち、CreateSpaceという米国アマゾン傘下のPOD(オンデマンドブック)制作会社のサイトに行って、ファイル(InDesignから印刷用PDFに書き出したもの)をアップロードします。翌朝にはデジタルプルーフがあがっていて、モニター上で校正や、外観のチェックができます。葉っぱの坑夫では、念のため、仕上がり状態を見るため、印刷したproofを注文しています。アメリカのアマゾンは、制作コストは日本と比べて非常に安く(ほぼ実費ではないか)、ただ海外輸送のため送料と時間がかかります。印刷と紙代で(ページ数により)250円〜600円くらい、送料で(スピードにより)2000円前後くらいです。

紙に印刷されたproofをまた最初から読み、何かあれば赤字を入れて修正します。画像が荒れていないか、大きさは適切かといった点についても、本として見た観点からチェックし、修正の判断をします。今回は、1回目のproofをとった時点で、表紙は仮のものだったため、もう1回、proofをとることにしました。その到着が9月末なので、アマゾン・ジャパンのエージェントへの入稿は、その後になると思います。エージェントは、KindleとPODとそれぞれのものがあり、別々に入稿します。

ところでKindle版の方は、Wordをつかってテキストと画像を配し、それをボイジャーのRomancerというネット上の変換システムでePubにします。これはとても便利なもので、無料ですし、簡単に変換ができます。Wordはパソコンに備えていないので(Macユーザーなので)、Office365というアプリケーションを月単位で購入してつかいますが、費用はかかっても、使いがいは充分あります。Romancerのことは、何年か前に知り合いが勧めてくれて以来、Kindle版制作につかっています。

Romancerで変換したePubは、Kindleに合わせるため、KindleGenまたはKindlePreviewerというソフトをつかってmobiファイルに変換します。これは自分で簡単にできます。ただ今回、いつもつかっているKindleGenがうまく作用せず、しかたなくKindlePreviewerをダウンロードして、こちらで変換しました。特に問題はなかったです。変換したmobiファイルは、自分のKindleデヴァイス(Paper WhiteとKindle Fire)に送って、表示や動作を確認します。ここをちゃんとチェックしておけば、販売されるKindle本はOKということになります。

『ワニ戦争』絵本版は、現在、デザインの仕上げにかかっています。日にちはまだわかりませんが、10月か11月には出版できるのではと思っています。『ディスポ人間』は10月初旬に出せそうです。

20180907

WorkとJobとLife

ワークライフバランスという言葉を最近よく見かけるようになった。仕事(主として会社などに雇われて外で働くこと)と自分の個人的な生活のバランスを取った方がよい、という考え方だと思う。そこでここで使われているワークとライフという言葉について、考えてみようと思う。

まずワーク(work)という言葉について。ワークとは何か、と考えるとき、似た言葉としてジョブ(job)があることに気づく。workとjobはどこが違うのか。workという言葉は、会社などで雇われて働くこと以外に、プロジェクトや研究、勉強など、自主的に取り組んでいる活動にも使われる使用範囲の広い言葉だ。それに対してjobの方は、会社での業務、任務など第三者から与えられた仕事というイメージが強い。またワークには必ずしも「仕事(労働)に対する報酬」はないが、ジョブは「報酬あっての仕事(労働)」とも言えそうだ(すべてではないにしても)。

その意味でいうと、今言われている「ワークライフバランス」は、「ジョブライフバランス」に近いようにも見える。

さてではライフ(life)の方はどうか。日本語でライフと言うと、生活を意味している割合が多いが、lifeには人生とか生涯といった意味もある(命という意味もある)。翻訳をしていて、lifeを何と訳すか迷うことがある。意味としては「人生」でも「生活」でも通るとき、どちらの言葉を当てるか、考えるケースがある。日本語では人生と生活では、指している範囲がかなり違うように思えるが、おそらく英語で言うlifeには、そこまでの区別がないのかもしれない。

「ジョブ」が対価が得られる労働というイメージが強いのに対し、ライフも日本語では、日々の生活、実質的な暮らし方のほうに重点が置かれている。人生と生活の間には、イコールでは結べない、心理的な仕切りのようなものがあるのだろうか。あるいは視点の違い、より近視眼的に見るのが生活で、少し距離を置いて客観的に見るのが人生なのか。

ワークライフバランスは、本来は「人としての生き方」と「自分が取り組む仕事や責務」のバランスを目指しているのかもしれないが、現在使われている言葉の方向性や範囲を見ると、もっと狭い意味を指しているように思える。

「働き方改革」と言われているものも、残業時間の削減といったことがまず目標にあげられる。確かに日本の会社員の多くが長時間労働をしている(あるいは強いられている)ことは、データでもよく挙げられている。海外の従業員と比べると大きな差がある、といった。しかしたとえばヨーロッパの会社員が、まったく残業をしないわけではない。ドイツ在住のフリーライター、雨宮紫苑氏によれば、ドイツ人も仕事が立て込んでいるときは残業をするという。それはドイツでなくとも、どこの国であれあり得ることだろう。

ただ日本との違いは、「必要に迫られれば」「仕事の進行状況に対応して」ということであって、仕事のないときも、遅くまで会社に残っているわけではないという。勤務時間の長さが評価に繋がるのではなく、あくまでも仕事の成果が問われているわけだ。日本では仕事のあるなしに関係なく、部署の人間が残っていれば、あるいは上司がいる間は、自分ひとり家には帰れない、という同調圧力があることはよく知られている。

また仕事のペースや、ミーティグンの時間設定などが、定時に終えることを無視して組まれていたりもする。どうせ皆9時、10時までいるんだから、と。また誰かが思いついた突然の夕方からのミーティングも、拒否する人はあまりいないかもしれない。今日は妻と外食する約束があって、、、とは言わず、妻に「急に会議はいっちゃって、ゴメン」と言って済ます。今だにそうなのか、と思わされるが、劇作家の鴻上 尚史氏も最近の新聞の記事で、日本社会の中の同調圧力について触れた際、定時に家に帰れない理由として、周囲の空気を挙げていた。

会社にいる間は、自分は自分であって自分でない。そこでは自分をなるべく消して、周囲の環境に馴染ませることを心がける。自分で判断して自分だけ何かする(たとえば仕事を終えていれば、定時になったらさっさと帰宅する)ことは、社内の空気を乱す行為であり、空気の読めない人間と思われる。日本の学校教育の中で、「協調性」が強く求められるのも、協力して何かを成し遂げる喜びを学ぶというより、ひとりだけ外れたことをして、皆に迷惑をかけないことが大事だからだ。「協調性」と「人に迷惑をかけない」ことを日本では小さな頃から教え込まれる。

そのようにして育ってきた子どもたちは、昔も今も、組織の中で外れてしまうことを何よりも恐れる。集団の中で、自分で判断して行動することをためらう。そんな調子でよく仕事ができるな、と思うかもしれないが、皆がそうであれば問題ない。

日本の会社員が残業するのは、残業代がないと暮らしていけないからですよ、と言う人もいるだろう。残業代がつかないと、普通の生活が送れないくらい基本的な給料が低い、という状況や会社の自分への評価の低さに甘んじている、とも言える。組織の中で、そこにある状況にどうにも抵抗できないというのは、言葉を変えれば、自己評価が低いことだ。そういった自己評価の低い人間が集まった組織は、会社としての成果も低くなるだろうが、才能やスキルはあるが集団としての合意から外れやすい(あるいは抵抗をする)人間の集団よりずっと、御しやすい。

ジョブを中心に考えれば、収入を失って(あるいは減らして)はいけないので、そのためにライフが犠牲になってもよしとする、という考え方が成り立つ。しかしワークとライフを中心に考えれば、違うアイディアが浮かぶかもしれない。

どんな暮らし方、生き方をしたいか、どのように自分の能力を発揮したり、自分を成長させながら仕事を続け、進化していきたいか、という視点から考えたとき、ライフもワークも、まったく
違う顔つきで目の前に現れるかもしれない。そんなの理想論だよ、現実は厳しいんだから、と言う人の顔が見えるようだ。自己評価が低く、自分自身を、自分の周囲を変えるアイディアや勇気に欠けている人だ。

働き方改革とかワークライフバランスなどの言葉で、社会が変化してくれば、自分もそれに従う人たち。でもそれは周囲の環境や社会の考え方が道を示しているからそうするのであって、自らの発意や欲求からの行動ではない。自分は基本的に何も変わらない。もし揺り戻しが起きれば、すぐにでも元に戻るだろう。

2、3年前に、電通の社員が過酷な労働が原因で自殺する事件があった。現在の日本の社会で起きていることは、同調圧力によって会社に滞留させられているだけでなく、実質的な過重労働によるものがかなり多いらしい。特に若い世代の人々の仕事量は、今の管理職が若かった時代と比べて、かなり多いのではないか、という意見もある。また電通社員の事件後に、会社が残業をつけることを禁止したため、残業時間のすべてがサービス残業になってしまった(仕事量が多く定時に終わらない)というコメントも聞いた(東洋経済オンラインの『日本人の「サムライ型」労働は、もはや限界だ』の記事に対する読者のコメント)。

常時、やりきれない程の仕事を押しつけられ、毎日遅くまで会社に残って仕事しなければならない勤務状況、というのは普通に考えて問題があるのは明らか。そんな状況で会社を運営していることに問題があるのはもちろんだが、それに抵抗できないでいる労働者にも問題がないとは言えない。そこにはやはり自己評価の低さがあり、会社には(あるいは上の者には)従うしかないと考えている弱さがあると思う。また皆がそうであれば、自分もそうするしかないという考えに逃げることも容易で、これは他者への同調圧力として働くだろう。

同じ日本国内でも、外資系の会社となると全く状況は変わるようだ。わたしの知る2、3の外資系勤務の人は、勤務時間や勤務場所にしばられる割合がかなり低い。仕事成果主義なので、どこで(たとえば自宅で)仕事しようと、何時まで(あるいは何時から)仕事をしようと、本人の自由意志でコントロールできる部分が多い。しかし成果に対する評価は厳しいようだ。ジョブに対する評価とは、本来こういうものだと思う。日本は長い間、終身雇用の考え方でやってきたので、仕事の成果より、社内で滞りなく過ごすことの方が重視されてきたのだろう。

外資系で長く働いてきた人が、日本の会社に転職し管理職となったが、定時に誰も帰ろうとしないのを見て驚いたという。周りからはいろいろ言われても、仕事本位でさっさと帰り、部下にもそうするよう指導しているそうだが、他の環境を知らない若い人は周りを気にして、それができないそうだ。上司が勧め、自ら実行していても、まだできないとしたら、それはかなり重症ではないか。おそらく自分の上司の行為が、社内で否定的に見られているから、そちらに従っているのだろう。

自分が属している集団内で、それが学校であれ会社であれ、人と違うことをするのは確かに簡単ではないと思う。同じことをしている分には理由はいらないが、違うことをするときは、その行動に対して理由が求めれらる。その理由が一般論として正しいと思われることであっても、あるいは会社や学校の規定にあったとしても、だからと言って「それはそうだね」「そっちの方が正しい」とはならない。だとすれば、自分の中にはっきりとした価値判断がないと、それを通すのは難しくなる。自分で物事の価値判断ができるということは、自己評価がそれなりにあり、自分の考えや判断を外に向かって主張できるということだ。

こう書くと、人間として当然もっているべきことに思えるかもしれないが、多くの人は自分で物事の価値判断を実はしていない。そのことが同調圧力を生む、大きな原因の一つにもなっている。ワークライフバランスを考えるとき、具体的に残業を減らすことは大事かもしれないが、残業時間を少しでも減らすことができれば問題は解決する、とも言えない。基本的なところで、ライフとワーク(ジョブ)のバランスを取るのであれば、自分という個のあり方を中心に据えて、ライフに対して、ワーク(ジョブ)に対して、自分なりの価値判断をする習慣をつけていく必要がありそうだ。

そういうことが出来る人間になるには、教育の現場でも(学校や先生が子どもを扱いやすくするための)「協調性」ばかり評価するのではなく、子どもが自分を積極的に評価できるよう、自分の価値を見出せるよう、励ましながら指導することが大切だ。「協調性」と同様に「人に迷惑をかけない」などというあまり意味のない指針も、控えめにする方がいい。これは家庭でも、父母が、子どもの自主性や自己評価を促進させるために、あまり口にしない方がいい言葉だと思う。

こういった今実際に行なわれていないことを実行するのは、実は簡単ではない。周りが違えば、それだけで不和を呼ぶ。協調性や人に迷惑をかけないことより、自己評価を高められるよう子どもを育てれば、先生からは不評を浴び、クラスでいじめられるかもしれない。こう考えると、鶏が先か卵が先か、のようなことになってしまう。それに歯止めをかけるのは、やはり個々の人間の気づきであったり、自覚であったりする。会社に行く年齢になったら、親もあまり助けられないだろうが、子どものうちは、まだ手をつくし、励まし、よりより道を見つけてやることはできるだろう。

間もなく親になる人、すでに小さな子どもをもつ親である人は、ワークライフバランスにおいて、非常に重要な役割を担っている。