アマチュア・ピアニストは何をめざす?
浜松国際ピアノコンクールという催しがいま開かれている。そのライブ映像をネットで少し見てみた。それと関連して、ピアノを弾くことについて気づいたこと、考えたことなどがあったので以下に書いてみる。
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『インタビュー with 20世紀アメリカの作曲家たち』というプロジェクトを今年の7月にスタートさせた。シカゴのラジオ放送局のクラシック音楽番組で、長年にわたって音楽家にインタビューしてきたブルース・ダフィーによるインタビューの記録をもとに、日本語に翻訳している。
ブルース・ダフィーのインタビューには、作曲家のほか、ピアニスト、指揮者、オペラ歌手などの演奏家を中心として、レコード技術者や音楽ジャーナリストまで含めた幅広い音楽関係者が集められている。ラジオに加えて音楽誌でのインタビューも含めると、1600人を超える人々に話を聞いているそうだ。その時の記録を(主として録音テープから)書き起こし、自サイトに掲載している。
葉っぱの坑夫では、アメリカの作曲家に的を絞り、10人のインタビューを翻訳する予定だ。ここまでの4ヶ月でジョーン・タワー、ポール・ボウルズ、ポッツィ・エスコット、スティーヴ・ライヒの4人を公開した。20世紀はハリウッド映画からファーストフード、ポップ・ミュージック、コンピューター文化と、商業的な文化がアメリカで花開いた時代。19世紀までヨーロッパ中心だった文化発信のエネルギーが、アメリカに移った感がある。そんなアメリカで、ヨーロッパ生まれ&育ちの「クラシック音楽」が、どのように生成されていったのかに興味をもった。アメリカの作曲家たちは、何を考え、何をつくろうとしていたのか。
ここまで訳した作曲家について言えば、1910年生まれのポール・ボウルズをのぞいて現存している。みんな現在80代になっているが、インタビュー当時は50歳前後で、音楽家としての経験、世の中の評価も充分で、意欲満々のエネルギーあふれる話し振りだった。
現代の作曲家たちの話を聞いていて気づいたのは、演奏家が20世紀になってどのようなものになっていったかということ。たとえばジョーン・タワーは次のように語っている。
19世紀には、作曲家と演奏家が同じ人間だということがもっとあって、それによって創造的な関係性を両者にもたらすことができた。演奏家は、曲をつくる作曲家以上に曲ができる道筋に意識的だったし、その逆も真。だけど今は演奏家はずっと向こうの方にいる、何キロも先にね。彼らは全く別の問題にかかわってる。それは傾向への関心と高度な技術。わたしは彼らをオリンピック選手と呼んでるの、素晴らしいことだけどね。
演奏家と作曲家の分化。演奏家の関心事は技術をみがくことと時流に乗る演奏法、か。さらにこう続けている。
わたしたちは歴史の中で、かつてなかったほどの優秀な演奏家を手にしている。そうであっても、演奏家たちはいつも音楽的な選択をしているわけではないの。彼らがしているのは楽器に関わる選択。彼ら自身のせいではなくて、楽曲づくりに関する訓練を、キャリアの中で一度も経験したことがないからなの。作曲をする演奏家たちは、しない演奏家と比べて、とても違う演奏をしていると思う。
現在の演奏家たちは(学生でさえ)高いレベルの技術をもっていて、難曲もやすやすと弾きこなしてしまう、という話はよく聞く。現在、開かれている浜松国際ピアノコンクールでも、自由選曲の第一次審査の曲目を見ていくと、難曲とされる『パガニーニによる大練習曲』を選んでいる人は多いようだ。第一関門突破には、まず技術的には何の問題もないことを見せておく必要があるということなのか(想像に過ぎないが)。ライブ映像や収録ビデオが公式サイトで公開されているが、それをちょっと覗いても、楽器を扱うという点では、十代の人も含め、問題のある人はいないように見えた。まあ、コンクルールなのだから当然か。
すごく変わった人とか、欠点は多いながら魅力のある人などはいるのか。多分いないだろう。なぜならこれはコンクールであって、プロのピアニストになる(あるいは成功する)ための登竜門なのだから。プロのピアニストが見せなければならないのは、「腕の確かさ」だろう。
ジョーン・タワーが上の引用の中で、作曲をする演奏家の演奏は、しない人の演奏とかなり違うと言っているが、それはわたしも感じたことがある。ずっと昔のことになるが、作曲家が自作をピアノで弾くというコンサートがあって聞きに行った。曲はすべて子どもの曲だったかもしれない。はっきりとは覚えていないが、どれもシンプルな曲だったように思う。自作なのだから、誰よりもその曲についてはわかっているはず。こういう意図で作ったというのが、演奏にも表れていたかもしれない。印象として、どれも面白く感じがよかった。ピアニストではないので、ピアノの腕を自慢する必要はない。作った楽曲をよりよく聞いてもらいたい、ということだと思う。
一般に作曲家の弾くピアノは、いわゆる「ピアニズム」みたいなものを強調することがなく、個人的には安心して聞ける。高橋悠治の弾く『ゴルトベルク変奏曲』は、他のピアニスト、たとえばこの曲で有名なグレン・グールドの演奏とはとても違う。グレン・グールドはそうは言っても作曲もしていた人だから、まだ普通のピアニストよりは作曲家寄りかもしれないのだが。それでもグールドの『ゴールドベルク変奏曲』には、高橋悠治と比べればずっとピアニズム的なものがあるように思う。
ピアニズム的な演奏がいけないわけではないし、これは好みの問題かもしれない。が、ジョーン・タワーの言う「オリンピック選手」という表現はある意味当たっていると思う。アスリートのように訓練を重ね、最高と言えるところまで技術を高め、どんなにスピードをあげても、確実性の高い破綻のない演奏ができるピアニスト、最弱音から最強音までコントロールがマシンのように効き、古典から現代曲まで幅広いレパートリーをこなし、、、、といった。
それに対して、演奏技術は低い作曲家の演奏は、ピアノの腕や楽器の扱いではなく、ジョーン・タワーの言うもっと「音楽的な選択」をしているのだと思う。近現代に入っても、ガブリエル・フォーレやモーリス・ラヴェルの時代には、まだ作曲家は自作の初演をしたり、レコードを残したりもしている。ラヴェルはピアノ曲をたくさん書いているが、ピアノの腕はそこまでではなく、イギリスのレコード会社からの申し出や、アメリカ・ツアーでの演奏に躊躇したと言われている。実際、アメリカ・ツアーでの演奏は、歓待も受けたが「下手くそ」で聴衆に驚かれたそうだ。アメリカ・ツアーでは、ラヴェルの指揮があまりにひどい、と非難したクリーブランド管弦楽団の主任指揮者もいたと聞く。
しかし作曲家で作家のポール・ボウルズは、ブルース・ダフィーのインタビューの中で、ストラビンスキーの自作の指揮について次のように述べている。
たくさんの指揮者が、ストランビンスキーは自分の曲を指揮する仕方を知らないと言ってますよ。でもわたしはそれを1ミリも信じないね。彼自身の指揮は、他の人のものよりずっといいですよ。だからわたしには理解できないね。求められることは、理解ですよ。知性で理解するだけじゃなくて、全般的な理解であり、また心情的な理解でもある。
そうか。演奏がいいか悪いかは、聴く人によってかなり評価がわかれるということかもしれない。どこを聴くか、という違いなのか。おそらく一般聴衆は、誰の曲であれ、ピアノでもオーケストラでも、破綻のない心地いい演奏を期待するだろう。作曲家の演奏や指揮は「上手い演奏」ではなく「曲の意図をつたえる」ことに重点が置かれているかもしれない。では演奏家は作曲家の意図を汲んでないのだろうか。ポール・ボウルズは次のように言っている。
そうですね、まずは演奏家は、自分の力で作品を理解しなくてはならない。だけど理解してない、たいていは。彼らの改変には [クスクス笑い] 目を見張らされるね、ときどき。テンポの指示は彼らにとって意味がないし、強弱も無視されている。それは彼らにはこうするべきという考えがあるからなんだけどね。
おや、、、演奏家は自分の力で作品を理解する必要があるけれど、そうはなっていない? 演奏家は自分の考えで演奏している、のか。それが演奏家の表現力ということだろうか。作曲家の多くは、自作の演奏への期待として、作品を理解し意図を汲みとって演奏してくれることをあげている。必ずしも技術的な「腕の良さ」を期待しているようではないらしい。1906年生まれのアメリカの草分け的女性作曲家のルイーズ・タルマは、もっと厳しい言い方でこの問題を語っている。
テンポの指定を窮屈に感じると演奏者が言っら、と聞かれて:それは全く認められないわね! それは演奏者の領域外のことよ。楽譜を実行するのが演奏者の仕事でしょ。楽譜にあることを演奏するために、そこにいるんであって。楽譜にどう書かれるべきか、指示するためじゃないの。
なるほど。これとは反対に、スティーヴ・ライヒは自分の作品が違う解釈で演奏されたときの驚きと喜びを次のように語っている。
ヴァージニアのシェナンドー大学から『6台のピアノ(Six Pianos)』のテープを受け取ったんだ。最初にそれをかけたときは、痛ましいほどの遅さに感じた。で、聴き直してみたところ、こう思ったんだ。「いや、なかなかいいぞ! 面白い演奏だ。たいした洞察力だ。南部の男性諸君が時間をたっぷりとって、あらゆる細部の表現を引き出している。せかせかしたニューヨーカーの自分が決して許さなかったやり方でね」と。(ブルース・ダフィーのインタビュー)
これは作曲家が心を開いて聴いた結果なのか、演奏者が深い洞察力によって演奏したからそうなったのか。その両方かもしれない。いずれにしても問題にしているのは、演奏の腕の話ではない。作品に対する理解の問題だ。
作曲家が望むことが曲への理解だとすれば、演奏する人は、もしその曲を大切に思い心から尊敬の念をもつならば、プロであれアマであれ、まずはその意図を汲みとる努力が求められる、と言える。それは現代のまだ生きている作曲家であれ、100年、200年前の作曲家であれ同じだろう。
ジョーン・タワーがオリンピック選手と名づけている現代の腕の達者な演奏家たちは、作品の理解についてはどのように考えているのだろう。もちろんコンクルールに出場するような人たちは、当然ながら一定の理解はしているとは思う。それがどういうものかは知りようがないが。それに加えて演奏技術や表現の独自性などを磨いていると考えられる。特にコンクールでは、たくさんいるコンテスタントの中から審査員が選ぶわけだから、平凡な演奏で埋もれてしまうわけにはいかない、だろう。
しかしアマチュアのピアニスト、つまり趣味でピアノを弾いている人たちは、演奏技術や作品の理解といった課題に対して、どういう態度で臨むべきなのか。わたしの想像では、ピアノが上手くなりたいと言ったとき、その8割は演奏技術を磨くことを指しているのではないかと思う。上手くなりたい意欲の強い人ほど、指の練習やツェルニーのような練習曲をやらなくてはと思ってるかもしれない。まずはそこを通過しなければ、と。
これは最近気づいたことなのだけれど、趣味でピアノを弾く人の目標や対象はピアニストではなく、作曲家たちが望んでいるような、作品のよき理解者としての演奏者であること、ではないか。作曲家がその作品で何をしようとしているかに興味をもつこと。それには音楽の成り立ちを、事前に自分で勉強する必要がありそうだ。ピアノを弾ける人は、楽譜を見たらすぐにその場でまず、弾いてしまいたい。弾くことで理解したい。それも間違ってはいないが、弾かずに楽譜を読むことも必要かもしれない。指揮者が楽譜を研究するような態度で。音の動きのパターンや曲の形式、バスの動きなどポイントはいくつもあるだろう。
ピアノを弾かない人はびっくりするかもしれないが、楽譜を見て演奏できることと、作品の理解とは違うことなのだ。極端な話、その曲が何調なのか、長調か短調かなど考えなくとも演奏は可能だ。シャープやフラットの数と位置さえ確認すれば、弾ける。わたしも楽譜を見たら即弾く、ということばかりしてきた。曲の理解? それは弾けばわかる、というのが答えだった。
しかし最近、そうではないようだということに気づいた。曲の成り立ち、どういう道筋でその曲ができたのか、知りたいと思うようになった。知って演奏したいと思うようになった。具体的にはその曲がどういう種類の音楽なのかとか、どのような形式によっているのか、とか。バッハの『ゴールトベルク変奏曲』の楽譜解説を読んでいたら、「形式」の説明のところに「いかにも大掛かりなパッサカリアらしく、この変奏曲では、同じバスの和声的内容が30の異なった形式で繰り返される。」とあり、ええっ、パッサカリアだったの??と驚いた。この変奏曲は、昔から何度も聴いてきた曲だ。
まずその変奏曲とは何か、ということを知らなかった。あるいはごく一部の知識で理解していた。ここ1、2ヶ月くらい、アメリカの作曲家アーロン・コープランドの『What to Listen For in Music』を少しずつ読んでいる。音楽から何を聴きとるか、といったような意味だろうか。専門家を対象とした本ではなく、素人の音楽の聞き手に対して、作曲家が音楽の成り立ちを丁寧に解説し、音楽の理解を深めるという趣旨の本だ。とても良い本だと思う。これを読むだけでこの作曲家のファンになってしまう。(この本は1939年に初版が出版されているが、アメリカのアマゾンでは今もたくさん読まれていて、レビューは95件、星もたくさんついている)
この本の中の「基本の形式」の2番目に「変奏曲」が出てきた。1番目はセクション(部分)から構成される音楽で、AーBーAなどの形式のもの。変奏曲には、Basso Ostinato、パッサカリア、シャコンヌ、テーマと変奏などがあり、パッサカリアは確かに変奏曲の一種だったわけだ。コープランドの本には、バスの繰り返しがあり、ground bassはメロディの役割も担っている、と書いてあった。そうか、『ゴールトベルク』はバスが大事なんだな。バスだけ何度も弾いてみたら曲の理解に役立つかもしれない。そして変奏曲ごとのバスの変化を感じてみるのもいいだろう。
そういえば、以前に作曲家についてピアノを10年くらい習っていたことがある。そのときよく言われていたのが、バスの音をよく聞くことだった。バッハのような対位法の曲ではなく、ハーモニーの曲であってもだ。バスの音を聞くことで、上に乗ってくるメロディーラインの音程感が適切になる、と言われた。ピアノは一つの音から出る音は決まっている、と思われているが、バスを聞くことでソプラノの音程感、ハーモニーの響き具合が変わってくるということだった。確かに響きは変わる。
ピアノの先生が作曲家であったことをそれほど意識はしていなかったが、思い返してみれば、演奏系のピアノの先生とは違う教え方だったかもしれない。子どもの生徒などが、ある箇所でつかえることがあった場合、普通ならその箇所を何度も練習するように指導するかもしれないが、作曲家の先生は違った。つかえる場合、それには原因が必ずあって、その場所が問題ではないこともある。1、2小節前のところからよく準備して入っていけば(一つのフレーズとして意識するなど)、スムーズに問題の箇所を通過できることがある。日本のピアノの先生は、聞いたところでは体育会系というか、うさぎ跳び100回的な練習を好むらしい。そうやってハノン(指の練習の曲集)やツェルニーの練習曲*をたくさん弾いて上手くなる、というルートがあるのだろう。
アマチュアのピアニストが目指すのは、「プロのピアニストも顔負け」的なことなのだろうか。アマチュアの時間や頭の使い方として、もっと有効なことがありそうだ。腕を磨かないと仕事にならないプロのピアニストとは違うのだから。もっと知の部分でピアノ演奏に迫っても楽しいことがありそうだ。多くの作曲家たちが言うように、作品を理解することが弾く喜びにつながることは大いにある。
コンクールの出場者たちがバリバリ演奏するのを見て悲観することはない。彼らがやっているのは、プロ仕様のアプローチなのだから。
浜松国際ピアノコンクールはどんなピアノ弾きを優勝者や入賞者に選ぶのだろう。聞こうと思えば全演奏だって聞けるようになっているが、そこまではなかなかできない。多分のこのネットで視聴できる仕組は、ショパン国際ピアノコンクールをモデルにしたのだと思う。ショパンコンクールでは審査員のコンテスタントへの評価も公開されていた。浜松はそこまではしないようだが、いくつかの演奏者の演奏を聴くことで、今のピアノ弾きたちの傾向や特徴がわかるかもしれない。
*ハノンやツェルニーでの練習曲:こういったものがたくさん出てきたのは、19世紀以降のことのようだ。岡田暁生著『西洋音楽史』によると、「十九世紀に入るとともに音楽史は、まるで技術開発競争史のような性格を帯びはじめるのである。」とある。そのような楽曲を弾きこなすために、指の訓練を目的とした練習曲が多量に生まれたのだろう。日本にピアノが入ってきたばかりの1960年代には、練習法としてハノンやツェルニーは欠かせないものだった。ピアノを弾く者にとって、19世紀の音楽こそが重要だった時代に、それらが多用されたことはわかる気がする。現在はどうなのか。2015年のショパン国際ピアノコンクールで2位になったシャルル・リシャール=アムランは、インタビューで練習曲を使っての指の練習はしない、曲の中から部分を取り上げて弾くことをやっている、というようなことを言っていた。そういう方法もあるだろうな、理にかなっているな、と読んだとき思った。