20190222

びっくり! 権威と思想と全体像のかんけい


今回、実は違うテーマで書こうと思っていたのだけれど、ある本を読んでいたらすごいことが書いてあって、そのことについてここのところ考えていたのでそれを書くことにした。まだ発見して間もないので、どれくらい書けるかわからない。考えが足りなければ、書きつぐことが難しく、短い文で終わってしまうかもしれない。

その文章とは次のようなもの。

で、<権威>という寄りかかれるものだけはあるが、<思想>のないところでは、ものの<全体像>は決して見えない。何故って、<全体像>というものは、ただ一つのものではなく、それをとらえるための視点、立脚点、つまり思想をもった目を通して、はじめてその姿をあらわす類のものなのね。(三宅榛名『作曲家の生活』の中の「クラシックってなんだろう?」より)

三宅榛名さんというのは現代音楽(あるいは現代クラシック音楽)の作曲家で、著書もいろいろある。この文章は1994年に書かれたもので、20年以上も前のものだけれど、この文章も含めて本の大半は、今読んでも充分につうじることが多かった。

上の引用文の部分は、夜寝る前に読んでいて、あまりに衝撃的だったので、眠りにつくまでの間、そして翌朝目が覚めてから、頭のなかでぐるぐるしていた。いろいろなことに当てはめてみて、その信ぴょう性を確認したり。でもこれを読んでも、これの何が???という人もいると思うので、何がそれほど衝撃だったか、文章に書くことで再確認しつつ説明しようと思う。

三宅榛名さんがどういう文脈でこのことを書いていたか、についてはあとで記す。というのはその文脈ごと、つまり三宅榛名さんがそこで言おうとしていたことの全体に対して衝撃を受けたのではなく、上に抜き書きしたその部分を独立したもの(真理)として受け止めていたから。だからあとで文章全体を読み返したら、ああ、こういうことが言いたくて、そう書いたわけねと改めて理解したような感じだった。

ここには<権威><思想><全体像>という三つのキーワードが出てくる。全体像というのは、ものごとの、できごとの、体系の、そういったものの輪郭と中身を一つの像として捉えたもの、とでもいったらいいのだろうか。全体に対する言葉として「部分」とか「一部」あるいは「一面」などがある。全体像とは、そのもののすべて、欠けるもののないすべて、その輪郭を見ること。対象物との間に、全体が把握できる最低限の距離があることを示している。そして「像」という言葉があるように、その実体をみつめる視点をふくんでいる。対象物と視点との間には距離があり、視点が対象物に、意識的に目を向けることで「全体像」は生まれる。あるいは姿を現わす。

三宅榛名さんが「ただ一つのものではなく」と書いているのは、全体像が視点というものを含んでいるからだ。視点というのは人によって、見る場所によって変わってくるもの。「視点、立脚点、つまり思想をもった目を通して」初めてその姿をあらわすのが<全体像>、と書いている。<思想>とは視点のことであり、立脚点(自分の立つ場所)のこと、としている。そうか思想というのは、視点のことでもあるのだな。視点のないところに思想はないというか。立脚点があいまいなところに思想は生まれにくいというか。

では視点とはなんだろう。ものを見るときのポイント? どこに、どのように目を当てるか。それが思想につながるというわけだ。何か例をとって考えてみよう。

たとえば地球温暖化人為説というものがある。というか、「人為説」は余計かもしれない。地球温暖化問題と言えば、人為説以外のものはメジャーではないから。これはIPCC(国連気候パネル)という<権威>が、「温暖化の原因は自動車利用など人類の行為」であることが66%以上(2007年には90%以上)と発表したことが、世の中に広まった結果と思われる。その後2006年には別の<権威>であるアル・ゴアが『不都合な真実』という映画で、それに拍車をかけた。この映画以降、ホッキョクグマの暮らす北の地域で、氷河が轟音をたてながら溶け、崩れ落ちる映像が、地球温暖化の象徴(広告塔)のような役割を果たすようになった。

地球温暖化の原因は、二酸化炭素排出など人間の行為の結果である、ということが決まり、それ以外の原因は追求する必要すらないところまで来た。それは今も変わらない。しかしこの問題を考えるとき、たとえば世界の見方に大きな影響を与えたIPCCなる組織はどのようなものなのか、何を目的に生まれた組織なのか、といったことは問われたことがあまりない。それは<権威>だからだ。

権威の存在を疑うことは、いわば反社会的なこと。疑わない、つまり「視点」を持たない、思想がないこと、「<権威>という寄りかかれるものだけはあるが」と三宅榛名さんが言うのはまさにこういうことだ。「<思想>のないところでは、ものの<全体像>は決して見えない」と続けられる次の文章を信じるなら、現在の状態は地球温暖化に関する全体像が見えない状況にあると言える。

IPCCは国連の専門機関で、政治的に中立な立場をとる130カ国2000人を超える科学者の集まりとされている。しかしデンマークの学者ビヨルン・ロンボルグによると、IPCCの事務局の中に、温暖化人為説を強調する政治活動家がいて、イギリスなどの政治家とともに政治的圧力を加えているという。IPCCの初代議長は、1988年当時、「2020年にはロンドンもニューヨークも水没している」と発言している。とくに初期のIPCCの発言、発表は破滅的な世界を予測する極端なものが多いようだ(後年、その発言のいくつかは撤回、またはより穏やかな表現に変えられている)。専門家の中には、「IPCCは、温暖化対策が必要だという結論を先に持ち、それに沿った議論だけを束ね、懐疑的な指摘や質問を拒否して、温暖化の報告書を作ってきた」という見方もあるようだ。 

IPCCの事務局が、あるいはそこに圧力をかける政治家がなぜ、人為説を強調するのかについては、2017年3月17日付けの本ブログ『「地球温暖化」をめぐる議論ふたたび』に詳しく書いているので、興味のある人はそれを読んでいただければと思う。こちら

地球温暖化の例をあげたのは、2007年にノーベル平和賞までとったIPCCという<権威>に寄りかかるだけで(全面的に信用して疑問をもつことがない)、自らの視点(思想)を放棄し(または無化し)、それによってコトの全体像を見失っている(あるいは全体像があらわれない状態に身を置いている)こと、この状態が三宅榛名さんが書いていることにそのまま当てはまるからだ。

ではここで最初にもどって、三宅榛名さんの言葉がどのような文脈の中で発せられたかについて書いてみよう。以下その要約。

クラシック音楽というと何故か反発のようなものをもつ人が多いが、それは嫌われてもしかたない、つまらないものなのか。多くの人にとって、知っているのはモーツァルトやベートーヴェンの名前や教科書で見た肖像画だったりして、「ツマらないのに、なんかエラそうにしている」存在として受け止められている。でもクラシックのもつ本来的な意味は、日本の社会では伝達されていない。

本来的な意味というのは、クラシック音楽というものが、ヨーロッパの歴史のなかで生まれ成熟した、膨大な体系であること。だけどクラシックを日本では<権威>のような扱いにしてしまったことで、本来の姿を見る視点が失われている。それで体系(全体像)が見えなくなっている。ひとたび権威となった「西洋の立派な音楽」は、その全体像がどんなものか、あるいは全体像があるという前提すら、日本の社会では問われたことがない。このことは音楽愛好家とされる人々の一部にも、ある程度当てはまる。

クラシック音楽に反発をもたせているのは、クラシック音楽自身のせいではなくて、自分たちの住む日本社会の変なありよう(明治以来の「西洋という進んだ文化」として受けとめる態度)そのものから来ている。「西洋かぶれ」のままで、つまり自分が誰なのか、わかってない。というようなことだったと思う。

権威に寄りかかるばかりで、自分の見方(思想)をもたないまま物事を見るとき、それが何なのか、どういうものなのか、どういった意味合いのものなのか、という全体像を手にすることは難しい、というのは本当だ思う。逆に言えば、全体像があらわれてくるような立ち位置、ものの見方というものを常日頃心がけていれば、自分の視野が広がっていく可能性があるかもしれない。それにはまず、権威のようなものに寄りかかることをやめる。そして自分の視点を意識し、必要と思えばその都度、それを更新し、全体像があらわれるような立ち位置にいるようにする。

このようなことが、ここしばらく考えていたことなのだ。ピンとくるものはあっただろうか?

20190208

インタビューについて考えてみた


インタビューとは、質問者と回答する人の間で行なわれる会話のことである、とMerriam Webster Dictionar(2016年版)にはあるようだ。日本語にはこれにぴったりはまる訳語はないと思う。だからインタビューという英語がそのまま使われている。(ただし就職や入学の際の試験のinterviewは「面接」という言葉がある) 

記事を書くために、インタビュアーとしてインタビューイーに質問したこともあるし、メディアからインタビューされたこともある。海外のメディアからのインタビューも受けたことがある。最近、チリの新聞の記者からインタビューの依頼を受けたが、それはemailによるもので、スペイン語ではなく英語。日本語以外では、インタビューを受けられるのは英語のみだ。

去年の7月、葉っぱの坑夫でスタートさせた「インタビュー with 20世紀アメリカの作曲家たち」は、シカゴのブロードキャスター、ブルース・ダフィーが、Classical 97というクラシック専門のラジオ局で、音楽家たちにしたインタビューの記録からの日本語訳。ブルース・ダフィーはClassical 97がなくなる2001年までの間の約25年間、1600人を超える音楽家(作曲家、演奏家、指揮者、音楽評論家、プロデューサー、調律師など)に独自のインタビューをしてきた。

そして1990年代から、その録音を文字に書き下ろす作業をつづけている。ブルース・ダフィーのウェブサイトには過去のインタビューの一部がテキストで掲載されており、現在も文字化の作業はつづいているという。おそらく彼にとってのライフワークではないかと思う。わたしがたまたま出会ったのは、その中のインタビューの一つだった。去年の春のことだ。

グーグルでRégine Crespin(レジーヌ・クレスパン/フランスのソプラノ歌手)を探しているときだった。ちょうど彼女の自伝を読んでいて、それが素晴らしかったのでGoogleで検索してみたのだ。するとWikipediaの次に、ブルース・ダフィーによるインタビューが出てきた。そしてそのインタビューを読んだ。自伝で読んだ印象と変わらないクレスパンの声が聞こえてきて、感動した。自伝のクレスパンも、その「しゃべりの声」が素晴らしかったのだ。

ブルースのインタビューがあまりに素晴らしかったので、目次を開いてみたところ、たくさんの音楽家の名前が並んでいた。クレスパンのインタビューの素晴らしさは、ひょっとしたらインタビュアーの才能にも負っているのでは、という気がしたのだ。名前のリストを見ると、かなりの著名音楽家が並んでおり、またわたしの知らない人々もたくさんいた。

その中から、適当に(選ぶ基準があまりなかったので)ピックアップして、自分の知らない音楽家を中心に数人のインタビューを読んでみた。その方がインタビュアーの力量に焦点を当てられる気がしたから。そしてその予想はあたった、と思った。名前も知らない音楽家(主に作曲家)のインタビューが、どれも刺激的で、最高に面白かったのだ。

インタビューが面白い、というのはどういうことか。ふつうインタビューを読むときは、インタビューされる側に興味があってのことが多いと思う。聞き手が誰であれ、答える人に対する興味で読むのではないか。インタビュアーが良くないと、確かにあまり面白いインタビューにはならないが。逆にインタビュアーが面白いから、その人のインタビュー記事を読む、というケースはどれくらいあるのだろう。ブルース・ダフィーのインタビューについては、わたしの興味は、最初そこのところにあった。

インタビュアーであるブルース・ダフィーの長年にわたる音楽との関係性、彼の言葉を借りれば「音楽は友だち」ということ、また小さな頃からの音楽体験が、インタビューに質と深さをもたらしてるように思えた。小さな頃、地元の教会で歌っていた経験や音楽を大学で学んだこと、バスーン奏者として地元の楽団で演奏していたこと(中国などにツアーにも行っている)、地元の高校や大学で音楽を教えていたことがあること、そして大変なレコードコレクターであること。こういったことのすべてが、インタビュアーとしてのブルース・ダフィーを型作っている。

ブルースのインタビューでは、質問はごく普通の言葉(音楽専門用語ではなく)でなされ、答える方の音楽家も、一般的な言葉で語ることが多い。それはラジオというメディアだから、そこまで専門性をもたせないという意図があるのかもしれない。音楽好きの人々(知識の程度に差はあるだろう)が、それぞれのレベルで聞ける番組なのではないか。

ブルースの質問は、必ずしも専門的なところに的を当てていない場合も、音楽についての深い洞察が感じられるものがしばしばある。たとえば作曲家に対して、「音楽の目的とはなにか」、「作曲は教えられるものなのか」「作曲家は音楽を支配しているのか、それとも音楽に支配されているのか」などの質問がなされているが、その回答は個々の考え方が明確に導き出されて興味深い。こういった質問は、質問者の側に、音楽に対する深い理解がないとできないものだ。

インタビューではときどき、質問者にそれなりの(あるいは相当な)知識があるために、質問が「質問」というより質問者の知識のひけらかしや主張になってしまっていることがある。そういったインタビューは、退屈することが多い。質問が的を得たものでなくなる。何のためのインタビューか、というポイントがずれてしまっているケースだ。ブルースのインタビューは全くそういうことはなく、ブルース自身、自分の知識や経験をそこで見せる必要は感じてない、と言っていた。 

このように見てくると、インタビューの面白さは、かなりの部分、インタビュアーの質と関係しているように思える。その質とは、質問する方の前提となる知識もあるだろうが、どのような態度でインタビューに臨むかが大きいかもしれない。アメリカのテレビには、よく知られたインタビュアーによる著名人のインタビュー番組というものがあるようで、いくつか見たことがある。そういった番組のインタビュアーは、たいてい高い質を備えた人であることが多い。インタビューを受ける著名人も、インタビュアーの質でその仕事を受けるか決めているかもしれない。 

日本のインタビュー番組というと、あまり思いつかないが、「徹子の部屋」が一つの典型として思い浮かぶ。あれは黒柳徹子というキャラクターが、立派な大人でそれなりの仕事や人生の経験者であるにも関わらず、子どものように率直な(あるいは馬鹿げた)質問を、著名人に臆面もなくする、というところがポイントだろうか。たとえ相手が何かの専門家であったとしても、視聴者の代表として、子どものような率直さで何でも臆せずに聞く態度、といった。

その他のインタビューを思い浮かべると、たとえば政治家への記者のインタビューには、面白いと思えるものは少なそうだ。スポーツのインタビューもそうだ。決まりきった質問に対して、選手も決まりきった答えをしている。サッカー解説者の戸田和幸さんは、もし自分が日本のどこかのクラブチームの監督になったとしても、インタビューは絶対に受けない、と言っていた。

一般に日本は台本社会ではないかと思う。インタビューであれ、演説であれ、あらかじめ台本が用意されていて、しっかりそれに沿って進めなければいけない、そういう社会。もちろんアメリカでも大統領の演説はあらかじめしっかりテキストが用意されている。しかしそれを「実演」する段になったら、そんなものはなかったような喋り方をする。日本では、その台本を手に、演説というより、読み上げていることも多い。特に言語が日本語ではなく、英語だった場合は、ほとんどの場合、「読み上げ」になってしまう。日本の多くの政治家はそうだ。お隣りの韓国を見ると、女性の政治家が手元に台本なしで、英語による演説をしているのを2回ほど見たことがある。

演説ではなく、インタビューの場合も、日本では台本を見ながらというケースがある。サッカーのニュース番組(CSのJsports)で、スペイン語のできるディレクターが、南米の選手にインタビューする際、手に紙をもってそれを読んでいたのを見て、驚いたことがある。インタビューの質問を紙を見て読み上げる、というのは、相手に対して失礼にはならないのか。視聴している方にとっても、紙を読み上げて質問、というスタイルは、インタビューとしてなんだかテンションが落ちる。言葉の壁があるから? おそらくそうではないのではないか。

インタビューではなく、スポーツ実況においても、実は台本があるという。これも戸田和幸さんが本に書いていたことだが、実況前に台本を渡されて、おおむねその通りやることになっているらしい。実況で?!! とわたしは思った。実況とは何か、を考えればひどい話ではないか。それも局や番組の要望で、このように言ってくれという要望があるらしい。戸田さんは、さすがにこれは言えない、こういうことを言っていては自分の解説者としての信用を失う、と思った場合は、実況者(アナウンサー)に変わり言ってもらうよう頼むそうだ。こんなことが起きているとは、ひどい話ではないか。 

なぜこのようなことが起きるのか。番組内で予測不能なことが起きたら困るから? そういう「リスク」に対して、きっちりした台本をつくり、参加者はその場で感じたこと、考えたことを言うより、台本にあることをしゃべることを優先させられる。リスク管理は完璧でも、実況やインタビューにとっては、マイナスとなる。こういったことは、たとえば「インタビュー文化」というものがあるとすれば、視聴者は、かなり質の低いところで我慢をしなくてはならなくなる。面白いインタビューは生まれにくい。

インタビューひとつとっても、その社会のあり方や国や国民の対し方がここまで違うということ。日本では、コミュニケーションにおいて面白く、活発なものが生まれにくい土壌だとしたら、とても残念なことだ。インタビューはカンバセーション、そうであれば用意された質問に加え、その場でも会話が生まれ、質問が生まれ、互いの言葉に刺激を受けたり影響されながら、おしゃべりが行き来しなければ意味がない。会話に発展性が出てこない。

ブルース・ダフィーも自分のインタビューを「カンバセーション」と言ったり「チャット(おしゃべり)」と言ったりしている。そういった言葉で表される対話の即興性が、インタビューの肝だということかもしれない。



最近インタビューを受けたチリの記者Fernanda CarvajalによるLomonono.blog:葉っぱの坑夫がどのようにスタートしたか、どのようにして作家やアーティストと出会っているか、過去の、そして今後の出版物についてなど話している