びっくり! 権威と思想と全体像のかんけい
今回、実は違うテーマで書こうと思っていたのだけれど、ある本を読んでいたらすごいことが書いてあって、そのことについてここのところ考えていたのでそれを書くことにした。まだ発見して間もないので、どれくらい書けるかわからない。考えが足りなければ、書きつぐことが難しく、短い文で終わってしまうかもしれない。
その文章とは次のようなもの。
で、<権威>という寄りかかれるものだけはあるが、<思想>のないところでは、ものの<全体像>は決して見えない。何故って、<全体像>というものは、ただ一つのものではなく、それをとらえるための視点、立脚点、つまり思想をもった目を通して、はじめてその姿をあらわす類のものなのね。(三宅榛名『作曲家の生活』の中の「クラシックってなんだろう?」より)
三宅榛名さんというのは現代音楽(あるいは現代クラシック音楽)の作曲家で、著書もいろいろある。この文章は1994年に書かれたもので、20年以上も前のものだけれど、この文章も含めて本の大半は、今読んでも充分につうじることが多かった。
上の引用文の部分は、夜寝る前に読んでいて、あまりに衝撃的だったので、眠りにつくまでの間、そして翌朝目が覚めてから、頭のなかでぐるぐるしていた。いろいろなことに当てはめてみて、その信ぴょう性を確認したり。でもこれを読んでも、これの何が???という人もいると思うので、何がそれほど衝撃だったか、文章に書くことで再確認しつつ説明しようと思う。
三宅榛名さんがどういう文脈でこのことを書いていたか、についてはあとで記す。というのはその文脈ごと、つまり三宅榛名さんがそこで言おうとしていたことの全体に対して衝撃を受けたのではなく、上に抜き書きしたその部分を独立したもの(真理)として受け止めていたから。だからあとで文章全体を読み返したら、ああ、こういうことが言いたくて、そう書いたわけねと改めて理解したような感じだった。
ここには<権威><思想><全体像>という三つのキーワードが出てくる。全体像というのは、ものごとの、できごとの、体系の、そういったものの輪郭と中身を一つの像として捉えたもの、とでもいったらいいのだろうか。全体に対する言葉として「部分」とか「一部」あるいは「一面」などがある。全体像とは、そのもののすべて、欠けるもののないすべて、その輪郭を見ること。対象物との間に、全体が把握できる最低限の距離があることを示している。そして「像」という言葉があるように、その実体をみつめる視点をふくんでいる。対象物と視点との間には距離があり、視点が対象物に、意識的に目を向けることで「全体像」は生まれる。あるいは姿を現わす。
三宅榛名さんが「ただ一つのものではなく」と書いているのは、全体像が視点というものを含んでいるからだ。視点というのは人によって、見る場所によって変わってくるもの。「視点、立脚点、つまり思想をもった目を通して」初めてその姿をあらわすのが<全体像>、と書いている。<思想>とは視点のことであり、立脚点(自分の立つ場所)のこと、としている。そうか思想というのは、視点のことでもあるのだな。視点のないところに思想はないというか。立脚点があいまいなところに思想は生まれにくいというか。
では視点とはなんだろう。ものを見るときのポイント? どこに、どのように目を当てるか。それが思想につながるというわけだ。何か例をとって考えてみよう。
たとえば地球温暖化人為説というものがある。というか、「人為説」は余計かもしれない。地球温暖化問題と言えば、人為説以外のものはメジャーではないから。これはIPCC(国連気候パネル)という<権威>が、「温暖化の原因は自動車利用など人類の行為」であることが66%以上(2007年には90%以上)と発表したことが、世の中に広まった結果と思われる。その後2006年には別の<権威>であるアル・ゴアが『不都合な真実』という映画で、それに拍車をかけた。この映画以降、ホッキョクグマの暮らす北の地域で、氷河が轟音をたてながら溶け、崩れ落ちる映像が、地球温暖化の象徴(広告塔)のような役割を果たすようになった。
地球温暖化の原因は、二酸化炭素排出など人間の行為の結果である、ということが決まり、それ以外の原因は追求する必要すらないところまで来た。それは今も変わらない。しかしこの問題を考えるとき、たとえば世界の見方に大きな影響を与えたIPCCなる組織はどのようなものなのか、何を目的に生まれた組織なのか、といったことは問われたことがあまりない。それは<権威>だからだ。
権威の存在を疑うことは、いわば反社会的なこと。疑わない、つまり「視点」を持たない、思想がないこと、「<権威>という寄りかかれるものだけはあるが」と三宅榛名さんが言うのはまさにこういうことだ。「<思想>のないところでは、ものの<全体像>は決して見えない」と続けられる次の文章を信じるなら、現在の状態は地球温暖化に関する全体像が見えない状況にあると言える。
IPCCは国連の専門機関で、政治的に中立な立場をとる130カ国2000人を超える科学者の集まりとされている。しかしデンマークの学者ビヨルン・ロンボルグによると、IPCCの事務局の中に、温暖化人為説を強調する政治活動家がいて、イギリスなどの政治家とともに政治的圧力を加えているという。IPCCの初代議長は、1988年当時、「2020年にはロンドンもニューヨークも水没している」と発言している。とくに初期のIPCCの発言、発表は破滅的な世界を予測する極端なものが多いようだ(後年、その発言のいくつかは撤回、またはより穏やかな表現に変えられている)。専門家の中には、「IPCCは、温暖化対策が必要だという結論を先に持ち、それに沿った議論だけを束ね、懐疑的な指摘や質問を拒否して、温暖化の報告書を作ってきた」という見方もあるようだ。
IPCCの事務局が、あるいはそこに圧力をかける政治家がなぜ、人為説を強調するのかについては、2017年3月17日付けの本ブログ『「地球温暖化」をめぐる議論ふたたび』に詳しく書いているので、興味のある人はそれを読んでいただければと思う。こちら。
地球温暖化の例をあげたのは、2007年にノーベル平和賞までとったIPCCという<権威>に寄りかかるだけで(全面的に信用して疑問をもつことがない)、自らの視点(思想)を放棄し(または無化し)、それによってコトの全体像を見失っている(あるいは全体像があらわれない状態に身を置いている)こと、この状態が三宅榛名さんが書いていることにそのまま当てはまるからだ。
ではここで最初にもどって、三宅榛名さんの言葉がどのような文脈の中で発せられたかについて書いてみよう。以下その要約。
クラシック音楽というと何故か反発のようなものをもつ人が多いが、それは嫌われてもしかたない、つまらないものなのか。多くの人にとって、知っているのはモーツァルトやベートーヴェンの名前や教科書で見た肖像画だったりして、「ツマらないのに、なんかエラそうにしている」存在として受け止められている。でもクラシックのもつ本来的な意味は、日本の社会では伝達されていない。
本来的な意味というのは、クラシック音楽というものが、ヨーロッパの歴史のなかで生まれ成熟した、膨大な体系であること。だけどクラシックを日本では<権威>のような扱いにしてしまったことで、本来の姿を見る視点が失われている。それで体系(全体像)が見えなくなっている。ひとたび権威となった「西洋の立派な音楽」は、その全体像がどんなものか、あるいは全体像があるという前提すら、日本の社会では問われたことがない。このことは音楽愛好家とされる人々の一部にも、ある程度当てはまる。
クラシック音楽に反発をもたせているのは、クラシック音楽自身のせいではなくて、自分たちの住む日本社会の変なありよう(明治以来の「西洋という進んだ文化」として受けとめる態度)そのものから来ている。「西洋かぶれ」のままで、つまり自分が誰なのか、わかってない。というようなことだったと思う。
権威に寄りかかるばかりで、自分の見方(思想)をもたないまま物事を見るとき、それが何なのか、どういうものなのか、どういった意味合いのものなのか、という全体像を手にすることは難しい、というのは本当だ思う。逆に言えば、全体像があらわれてくるような立ち位置、ものの見方というものを常日頃心がけていれば、自分の視野が広がっていく可能性があるかもしれない。それにはまず、権威のようなものに寄りかかることをやめる。そして自分の視点を意識し、必要と思えばその都度、それを更新し、全体像があらわれるような立ち位置にいるようにする。
このようなことが、ここしばらく考えていたことなのだ。ピンとくるものはあっただろうか?