20190524

日本語と長いテキストの相性は?


A:日本語は長いテキストに向かないんだろうか?

B:いやそんなことないでしょ。

A:でも長いテキスト、少ないですよね。

B:そう? でも本だってあるわけだし、本はふつうテキストがいっぱいあるでしょ。

A:まあ、そうだけど。。。でもウェブとか見てると、テキストみんな短いですよね。

B:ウェブねえ。たとえば?

A:ネットの新聞でも、いろんな記事とか、個人のブログでも。あまり長いの読んだことないですよ。

B:それはネットだからじゃないの。日本語だけじゃないでしょ。

A:いや、英語の記事とかは長いのけっこうありますよ。それにネットだと、記事の長さを気にしてなくてもいいはずで。紙の場合だと文字数に制限ありますけど。

B:ふーん。で、短いとして何か問題?

A:短いと議論が深まらないですよね。何いうにしても。最初に何か課題が出されて、それについていろいろ言うわけで。最後に結論ですけど。その間がないというか。簡単に終わりに行っちゃう。

B:うーん。議論がないってこと?

A:まあそうですね。

B:それでテキストが短くなっちゃう?

A:メールなんかでも、日本(日本語)ではあまり長いメールは失礼みたいな、ありません?

B:あるね。受け取る人に負担がかかるから。読むの、大変でしょ。長いと。

A:それとなんか、一人でずらずら(とうとうと)喋ってるみたいで。押しつけがましい。

B:確かに敬遠されかねないかもしれない。

A:でもそれってどうしてなんでしょうね。言うことがたくさんあったり、確認事項が細かくある場合もあるわけで。

B:印象だろうね。長いテキストを見ると、うんざりするっていう。

A:ほらね、うんざりするわけですよ。

B:ごちゃごちゃいろいろあって面倒そう。シンプルがいちばん。

A:よくメール書くとき、1行あけで書く人いますよね。ビッシリ詰めて書くと圧迫感与えるから。

B:ああ、いるね。白いメールね。多いんじゃない。黒いメールより。

A:英語の人とかは、人によりますけど、けっこうビッシリ詰めて書いてきますよ。

B:だいたい本だって、小説とか、最近のものはページが白いかもな。ビッシリ文字が詰まってない。

A:そうそう、段落も短くて。吉本ばななさんが出てきたあたりから、そういう感じになってきた気がする。

B:それも長いテキストが日本人に向かないせいなの?

A:どうでしょう。段落については、日本語の段落と英語の段落では意味が違うかも。

B:意味が。

A:英語の場合は、ある一まとまりのことを言う場合、段落を変えずに書くと思うんですよね。たとえ長くなっても。日本語の場合は、内容のまとまりというより、息つぎみたいな感じがするんですよね。

B:なるほど。息つぎね。いくら内容的に一つのことだといっても、一つの段落で続けられたら息が詰まるよね。

A:日本語(または日本人)の場合、そうかもしれないですね。話を戻すと、テキストが短いと問題なのは、さっきも言いましたけど、議論が深まらない。たとえば新聞の記事なんかでも、どこそこで、こんなことがありました、で終わり。テキストが短いから。起きたことの背景とか、どんな見方や分析ができるかとか、関連する出来事とか、飛んじゃう。あったとしても、そもそも短いから、結論めいたことだけになってしまったり。

B:でも、そんなにいろいろ知る必要あるのかね。何がどこで起きたあたりで、ふつう興味は終わるでしょ。

A:そうかもしれないですけど。。。つまり好奇心があまりないってことなのか。議論が深まらない以前に。
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と、ちょっと趣向を変えて会話体で始めてみた。書いていて気づいたけれど、会話体ってスラスラといきますね。おそらく読む方もそうではないかと。中身は薄い気がするけど、浸透率は高いというか。論理で詰めていく文章とはかなり違う。

最近、Courseraというネットのlearning プラットフォームで、Advanced Writingという授業を受けてみた。英語の授業なので英語における文章の書き方についてなのだが、Advancedとついているのは、一応アカデミックな文章を書くことを目的としているから。いわゆる論文。essayという言い方をしているけれど、具体的には書く際に選ぶ話題はスポーツとか芸能ではなく、もう少し社会性のあることのようだ。

実際に文章を書く前にやったのが、引用として使う文章の扱い方。参考文献を文章に取り入れるとき、どう引用するか、どのように引用元を示すか、といったことだ。それを間違うと、plagiarism(盗用)という言葉で表される、してはいけないことになる。論文では必ず参考文献を入れ込むことが求められるので(自分の考えを裏づけたり、ある考えを検証するために)、その際の書き方は正規のものでなくてはいけない、ということ。

論文の基本構成としては、まず前文のような論文の要旨や目的、意図を告げる紹介文があり、その先にbodyと言われる本文が続く。本文は最低5段落くらい必要で、それぞれ段落の中で必要とされる参考文献を引用、または自分の文章に取り込んで紹介する。そして最後に結論がくる。使われる参考文献は、最低でも3種類くらいは必要としている。客観性をもたせるためだろう。そして論文の最後のページに「Work Cited page」と呼ばれる参考文献のリストをつける。

引用については、普段日本語で文章を書くとき、引用元をなるべく書くようにしてきたつもりではあるが、改めて襟を正したいと思った。どこまで厳密にやっていただろうか、と。ときにどこかに書かれていた「事実」を、誰でも知っている事実として、引用元を参照させずに書いてしまってはいなかったか。事実というのは一つのように思えて、実はそうではない。新聞の記事でもそうだが、書き方ひとつで、事実の見え方は変わってしまう。

それが事実かどうか判断できない場合は、〇〇によると、といった引用元を示す方がいいように思う。アカデミックな論文の場合は、より引用元の提示の有無やその方法が厳しく問われるが、ブログやエッセイなど一般的な文章でも、基本は頭に入れておいた方がよさそうだ。そうすることによって、自分の書く「地の文章」の正確さ、精度、信頼度も上がってくるかもしれない。より事実に沿った、あるいは事実を見極めようとした文章になるだろう。

確かに(特に日本語の世界では)、いろいろ注釈が入るのは読みづらい文章に見える、ということはある。いちいち引用元を、それも出てくるたびに何度も記すのは、くどいとか、固い表現に見えるかもしれない。何となくだが、日本語における上手い文章というのは、すっきりとした淀みないものという気がする。「わたし」という主体が書くものは、素材として扱うものも、地の文章もすべて書き手に属しているといった暗黙の了解のような。

わたしが考えて書いているのか、どこかの誰かが書いたこと、言ったことを引用して取り入れて書いているのか、はっきり区別して、その引用元を提示するという書き方は、「日本語にとっての美」というものがあるとしたら、あまりそぐわないかもしれない。自分と他者をそこまで厳しく分けない、というのが日本人のあり方だからだろうか。

一般にネットの文章が新聞記事を含め、日本語の世界では短いものが多いのは(長くても2000字以内。インタビュー記事については4000字弱のものもあるが)、論理とか裏付けの面が少ないからかもしれない。文章は論理が優先されればされるほど、必然的に長くなる。論理的に納得感の高い文章にしようと思えば、多面的にものを考え、それを立証する素材を集め、と、たくさんのことを記す必要が出てくる。読む方も、一つの事実に対して、様々な可能性、ものの見方を提示され、それにいちいち付き合うことになる。そういうことが、日本語人はあまり好きではないかもしれない。

以前にSynodosという論壇サイトに「バハマのイルカの暮らしから、日本の水族館のことを考える」という文章を寄稿したとき、可読性を考えて4000字以内が望ましいと編集者から言われた。シノドスは学者やジャーナリストなどが長年調査や研究してきたことを報告しているものが多く、一般的な新聞や雑誌の記事よりテキストは長い。その標準が4000字と聞いて、そのときなるほどと思った。因みにわたしが書いているこのブログは、ここ何年かは2週間に一度の割で更新し、テキストの長さは4000~6000字のものが多いと思う。短く簡潔に書こうとは特別していない、ということもあるだろう。書くことそのものより、書くことによって考えることを主眼にしているせいかもしれない。ソラで考えるのは案外難しい。気になっていた事象を、考えながら、検証しながら書いている。書くことそのものより、何を対象にするかを決めるのが難しい。

日本語の世界では、一般に文章量が少ない傾向であることは書いた。前回の記事を書く際、古いLPをいろいろ見ていたら、ライナーノートという楽曲についての長い解説がついているものがいくつもあった。これは日本語のもの。こういうものが必ずついていたのだな、と半ば感心して見ていた。音楽評論家やミュージシャンが書いていたりする。CDになってからも、最初のうちはページものの凝ったブックレットがついていることはよくあった。歌ものであれば歌詞はすべて載っている。でも今のネットで聞く音楽に、例えばiTunesとかSportifyに楽曲やアーティストの解説はない。デジタルデータでアルバムを購入した場合は、PDFのブックレットがついてくることはあるが。音楽は解説なしで聞くだけ、の世界になりつつある。それでも海外のインディーレーベルやbandcampのようなプラットフォームでは、それなりの長さの紹介文や解説が読める。それは音楽ファンにとっては楽しく、歓迎すべきことだ。

こういうものを見ていても、あるいはアマゾンの本の紹介文を見ていても、日本語の世界では、文章が非常に少ないな、という印象はある。ときにこれでは購入するかの検討をしようがない、という短さだったりもする。代わりとして投稿によるレビューが助けてくれるが。版元が自社の本を紹介するテキストはわずかばかりのことが多い。文章量が多いと、かえって敬遠される? (長々とした説明を読んでいたら、それだけでお腹いっぱい、買う気が失せた) そんなことはないでしょう。

様々な場面でのテキスト量の少なさは、日本語の世界の何を表しているのだろう。一つはやはり文章をどれくらい論理に沿って書くか、が関係しているかもしれない。論理に沿って書くと文は長くなる。論理とは、ひとこと「こうこうである」と言えば済むものではないから。英語の場合、文章でも話でも、何か言えば対のように「because」がついてくる。日本語、あるいは日本語人の精神のありようで言えば、「察し」のない表現は、粋じゃない。くどくど説明するような文章はダサい、あるいは面倒な表現と思われるかもしれない。

それで思いつくのは、俳句とか漫画の世界。省略の文化、あるいはデフォルメ。俳句は限られた語句で、一つの世界(できれば広がりのある世界)を表す。漫画は絵や言葉(セリフ)で象徴的に、ある種の強調表現を使ってストーリーや世界観を表現する。そういう表現が日本語人の心性に合っているのではないか。論理と段階を踏んだ説明、外部参考資料を駆使した徹底した事実確認といった方法論ではなくて。

こういったことが、日本語による文章の短さに繋がっている気がする。日本人なんだからそれでいいだろう、という人もいるかもしれない。しかし外部(国外ということだけでなく、見知った人や集団、組織の外)とのコミュニケーションには、説明文化、論理による文章も必要とされる。村社会を脱した(まだかもしれないが)日本にとっては、今後、外部と内部の境界は必ずしもはっきりと識別できるものではなくなるかもしれない。「完全に内部」とは言えない人、「外部を少し合わせもつ」人など、多種多様な人がまわりに出てきたとき、話し方や伝え方を変える必要が出てくる。

俳句のような「省略文化」をもつ一方で、必要であれば論理に沿って並べたてる「説明文化」もこれからは合わせもつのがいいのではないか。ダブルスタンダードでいくのがいいと思う。従来の意味で使われるダブルスタンダードとは違うかもしれないが、二重基準をもつのだ。勝手知ったる人とは、省略形でやりとりする。未知の、あるいは不特定多数の人に対しては説明文化系で。省略形は日本語人の場合、教えられなくとも身についている。説明文化の方は、意識して身につける必要があるだろう。何をすれば身につくか。たとえば、ブログや日誌のようなものを書くときに、論理性のある長い文章を書くようにしていくといいかもしれない。

もちろん、ただ長い文章を書けばいいということではない。長い文章を支えるのは、それを必要とする内容、必ずしもすぐには伝わらない主張だったりする。ある一つの見方があって、それが一般に認知されていないとき、あるいは多くの人がその反対の見方をしているとき、問題の全体を見渡してそれぞれの考え方の立脚点を示したり、両方の考え方によって起きる事例をあげたりして、自分の見方を論理的に理解し納得してもらう、ということはありそうだ。

世の中でふつうに言われていること、なんとなくそう認識されていることは、説明抜きでひとこと書けばそれで済む。ということは、一般に言われていることと少し違う見方を常日頃持っていることが、長い文章につながるのかもしれない。文章の長さとは、結局、書く人のものの見方の深さ、広さである、ということか。

20190510

音楽の未来:ストリーミングとLP(2)

前回につづいて、音楽の聴取の仕方を通じた音楽の未来について考えてみたい。(1)ではアルヴォ・ペルトに端を発して出会ったプラットフォーム、bandcampのことを中心に書いた。今回はペルト経由で出会ったもう一つのプラットフォーム、ECM Recordsのことから書いていこうと思う。

ECM Recordsはミュンヘンにあるレコードレーベルで、1969年にマンフレート・アイヒャー他2名によって創設された。アイヒャーはレコードプロデューサーとして現在もECMを率いる中心人物。元はコントラバスの奏者で、ベルリン・フィルで演奏する他、ジャズベーシストとしても活躍していたそうだ(日本語版ウィキペディア)。この彼の経歴が、のちのECM(Edition of Contemporary Music)の音楽性を導いていったのではないかと思われる。

ECMはアルヴォ・ペルトを通して知ったので、クラシックあるいは現代音楽のレーベルかと思っていたら、最初の出発はジャズだった。マル・ウォルドロンを皮切りに、キース・ジャレット、チック・コリア、パット・メセニーなどジャズ界の名だたるミュージシャンのレコードを出している。しかし英語版Wikipediaによると、アーティストの中には音楽のジャンル分けを望まない人々もいたとこのこと。このあたりにもECMの抱えるミュージシャンの音楽性が現れているように見える。このレーベルが大事にしているのは、一般的なジャンル分けではなく、音楽のもつトーンや音楽性なのだろう。ECMのスタート時のモットーが、このことをよく表している。 "the Most Beautiful Sound Next to Silence(沈黙のつぎに美しい音楽)”(英語版Wikipedia)。

この言葉は、アルヴォ・ペルトの音楽の静寂、沈黙性とも合致する。クラシック音楽のシリーズをECMが始める1984年以前に、すでにアイヒャーはペルトと出会い、強い信頼関係を結び、『タブラ・ラサ』などのレコーディングを行なっていたようだ。クラシックのシリーズを始めてからは、ジョン・ケージ、スティーヴ・ライヒ、ジョン・アダムスなど、アメリカの現代音楽作曲家の大物たちのレコーディングをしている。クラシックと言っても、ベートーヴェンやマーラーではないところがECM。

ECMはジャズやクラシックのシリーズ以外に、ワールドミュージックのシリーズももっているようだ。つまりジャズ、現代クラシック、ワールドミュージック、この三つのジャンル(あえてこの言葉を使えば)を網羅していることになる。しかしECMのアーティストの中に、ジャンル分けを嫌う人がいるように、そしてアイヒャー自身がジャズもクラシックも演奏していた経歴があるように、このレーベルの血筋あるいは系統には、ジャンルでは表せない音楽性という特徴がやはりあるようだ。

1994年にリリースされ、ベストセラーとなったECMの代表作『Officium』では、ルネサンスやさらに古い時代の12世紀の作曲家の作品を、ジャズのサキソフォーン奏者ヤン・ガルバレクとイギリスの(古楽を歌う)男声クァルテット、ヒリヤード・アンサンブルのコラボレーションで録音している。何曲か聴いてみたが非常に新鮮だった。聴いたことのないサウンド、トーン、ムード。スティーヴ・ライヒなど現代音楽の作曲家たちが、ペルトンなど古い時代の音楽に注目していることは知っていたが(アルヴォ・ペルトも古楽の研究をしていた時期がある)、ジャズと古楽との組み合わせの演奏は聞いたことがなかった。

たしかに、ここには、クラシック、ジャズ、ポップスといった一般的なジャンル分けを無化する、それを超える音楽の場、音楽世界が広がっているように感じる。ある音楽から、それが属するとされてきたジャンルを外してもなお、唯一性の高い音楽が存在したとき、このようなコラボレーションは可能になるのかもしれない。

ECMはまた、そのジャケットの美しさでも知られているそうで、ジャケット集の本が2冊も出版されている。アマゾンで調べてみたら、どちらも洋書だが日本語による高評価のレビューがついていた。本そのものは古書しかなく、非常に高い値段がついていて、とても試しに買えるようなものではなかった。そこで現在のアルバムジャケットはどのようなものか、ECMのウェブサイトに行ってみた。そしてすぐに納得。シンプルで、音楽と同じように静寂感のあるアートワークによるジャケットがカタログにはズラリと並んでいた。



(左から)Tord Gustavsen Trio、Jakob Bro他、Danish String Quartet



そこからいくつか試聴してみたが、どれも期待を裏切らない音楽性、聞いたことのない世界観をそれぞれもっていた。アルミ・アグバビアンはアルメニアの歌い手、新譜『bloom』は静かで澄んだ彼女のヴォーカルに、音数の少ないピアノ伴奏、それに影のように寄り添いかすかに響くパーカッションが素晴らしい。「沈黙のつぎに美しい」音楽、そのままだ。

ステファン・ミカスは世界中を旅して様々な民族楽器と出会い、それを集め、自分の音楽世界をつくってきた人のようだ。新譜『White Night』ではアルメニア、インド、チベット、ガーナ、セネガル、ボスニアなどなど、多くの地域で出会った楽器を、自身の音楽世界に同時に取り入れ、聞いたことのないコンビネーションで独自の音楽世界を繰り広げている。

サウンド的な面白さ、つまり音楽ジャンルに縛られない楽器づかいという点で、この二つのアルバムは共通している。サウンドを楽しむという音楽の聴き方は、20世紀後半に入ってからの傾向かもしれない。それまでは音楽の「中身」を聴くことが中心だった。メロディーとかハーモニーとか構成とか、あるいは演奏者のヴィルトゥオーソ振りとか。

ECMのウェブサイトではサンプル視聴のみなので、Spotifyで検索したところ、ECMレーベルのアルバムはすべて揃っているように見えた。つまり全編漏らさず聴ける!ということ。Spotifyにインディーレーベルがどれくらい揃っているか知らなかったが、これは今後期待できそうだ。

ECMはレーベルであり、聴取の方法論において特別先進的なところがあるわけではない。しかし扱う音楽の範囲、ジャンルを分けない提供の仕方に、わたしは音楽の未来を見るし、Spotifyなどのストリーミング・サービスに音楽を流すことによって、これまでとは違ったリスナーを得る可能性も出てきた。Spotifyではリスナーが選んで聞いていた曲が終わると、似たテイストのものを勝手に流すようになっている。そうやってECMのアーティストに出会う、ということは充分にあるだろう。

ECMに関してはもう一つ別の期待があった。ジャケットがコレクションとして本にまとめられるほど美しい、ということはvinylと呼ばれるLPをたくさん出しているのではないか、という期待。

前回の(1)で良いと思える音楽を、vinylと呼ばれるLPレコードで聴いてみたくなった、モノを手にしてみたくなった、と書いたのにはECMのことがあった。ECMで1枚アルバムを買ってみようと思っていた。が、なかなか見つからない。LPがあってもSold Outのものが多い。いくつかジャズ関連のものでLPを見つけた。曲も気に入れば買ってみたい。価格は€20。送料はどれくらいだろう。送料込みだと€30を超えてしまうだろうか。安くはないな。世界に散らばるファンのことを考えれば、ECMがSpotifyにアルバムを登録することは、今の音楽販売にとっては自然なことかもしれない。

しかし最近はLPに復活の兆し、という話題もときどき耳にする。bandcampでは少し前から、アーティストがLPを作るための仕組を始めたようだ。それはクラウドファウンディングを組み込んだキャンペーンスタイルの試みで、アーティストは目標金額と期日を設定し、ファンがプレッジ(予約)すると、目標額に達したとき、CDと12インチのLPのセットを購入者に送るというシステム。Juliette Jadeというアーティストは、『Constellation』というアルバムを出すのに目標金額を$4,217(最近のレートで468,529円)に設定。残り14日で89%に達している。通常盤の場合、最低金額が$25、リワードにジャケットにサインの$40(50口)、ギターピックにサインの$50(10口)はすでに販売終了している。ページには97人のバッカー(支持者)のアイコンが並んでいた。

先日、買いたいかな、と思ったアーティストがいたのだが、そのアルバムはすでに目標金額$7,150の100%に達していた。$33でLP2枚組だったが、送料が高くて($15くらい)やめた。こういうサポート的な購入で地域差が出るというのは、ちょっとだけ興ざめな感じがした。物流にはお金がかかるので地域差は仕方のないことかもしれないが、ネット空間で支援・応援の気持ちで何かしているときに、「あなたの地域は送料いくら」と言われると、えっという気分にはなる。

ZZK Recordsという南米のレーベルがあって、面白くかっこいいネオラテンな音楽を配信している。ここでもLPがCDやストリーミングと一緒に販売されている。NIcola Cruzの『siku』というアルバムを試聴してみた。ページを開くと、bandcamp、Spotify、YouTube Music、Apple Musicなど10個くらいのプラットフォームがずらりと出てくる。その中からYouTube Musicを選んで聴いてみた。

すると動画が出てきて、演奏風景、村のランドスケープ、遊ぶ子どもたち、ジャングルや森などが映し出され、すごく臨場感があって楽しめるものになっている。映像もいいなあ、と。YouTube Music。ZZKのトップで紹介されていたもう一つの南米バンドは、Facebookで動画配信していた。それも演奏風景や町や人々、ストリートの風景など、音楽とともに楽しめる(あるいは音楽の理解につながる)映像になっていた。

音楽ビデオというのは、なかなかいいものだ。現在のインディーズものは、昔のMTVなどとはちょっと違う感覚の作りになっている気がする。ショートフィルム的というか。ドキュメンタリータッチというか。ECMのアーティストにも、動画でプロモーションしている人がいる。アルバニア系スイス人の歌手、エリーナ・ドゥニはアルバム『PARTIR』で、オリジナル曲のほか、コソボ、アルバニア、アルメニアなどのフォークソング(traditional)を歌っている。ギター、ピアノ、あるいはパーカッションのどれかを単体で伴奏に使い歌う。ビデオはECM Presentsとなっており、ドキュメンタリー風の録音風景が映し出され、その中には録音室にいるプロデューサーのアイヒャーの後ろ姿も見られた。

ドゥニの歌を聴くとき、この音楽が何に属するのか、どのジャンルなのか、はまったく気にならない。歌唱法としては、クラシックではない。ふつうの、というのも変だが、ジャズ風とかラテン風とかR&B風とかでもなく、フォーク(民謡)風というわけでもない。歌い手自身の歌い方、ドゥニ風とでも言ったらいいか。楽曲はオリジナルありトラディショナルありで、聞いていてはっきりとそれらを区別するような境界も見当たらない。無国籍、すなわちワールド(ミュージック)ということになるのだろうか。

音楽の聴取の仕方をとおして、音楽の未来について2回にわたって考えてきた。結論めいたものは特にないが、感覚として残ったのは音楽の未来は明るい、展望よし、もっとひらけてくるだろう、もっと楽しめるようになるだろう、というもの。一つは様々な音楽の混合、境界の薄まりにおいて、もう一つは「所有」することから離れて、広く、深く楽曲に接する機会が増えていること。ストリーミングなどの音質的な低下の問題も、時代が進み、技術やインフラがいずれ解決するのではないか。今は過去の遺産も含め、幅広い音楽に触れられる機会こそが、貴重であるように思う。

ECMのサイトに行って、Catalogueページを開き、数あるアルバムの中から気に入ったジャケットを選び、サンプル音源を聴きながら、アーティストや楽曲についてのテキストを読む。曲が気に入れば、Spotifyの検索窓にアルバム名を入れて、全編を流して聞いてみる。あれも、これも、と気を惹かれたジャケットの音を聞いてまわる。そんな音楽の楽しみ方がかつてあっただろうか。


Elina Duni - 'Partir' Meu Amor