川久保玲 vs. ゆとり世代 (1)
ゆとり世代、をゆるく主張している人たちがいることを最近知った。大雑把にいうと1980年代後半から2000年にかけて生まれた日本に住む人たちで、ゆとり教育の時代を小中学校で過ごしている。現在の20代、30代前半と思ってだいたい間違いない。
『新・ゆとり論』というすみたたかひろさんの本があって、それを青山ブックセンターのLotus TVで山下店長が紹介していたのをきっかけに、読んでみることにした。話がそれるが、AOYAMA BOOK CHOICEというネットTV(ビデオ)による本の紹介は、とてもいい。選ぶ本もバラエティに富んでいて面白いが、それを紹介するときの山下さんの視点や、紹介の仕方(書店からのPRというより、個人としての感想、アプローチ)に好感がもてる。本屋さんによるこういう本の紹介の仕方、他であまり見たことがない気がする。存続が難しくなっている本屋さんが、本の中身で本を選び、心から勧められるものを広くアピールしているところがいいし、本屋さんが今すべき大事なことの一つだな、と賛成できる。
さてゆとり世代、あるいはゆとり論について。この本は、すみたたかひろさんというフリーの編集者が、自身と同じゆとり世代に属する周りにいる人と話していて、自分たちには共通する「思想のようなもの」があるのかもしれない、と気づいたところから企画がスタートした。中心になる数人と協力者によって本づくりは進められ、クラウドファウンディングを利用して印刷などの資金を集め、ネットとABCのような何店舗かの実店舗で、本を販売をしたようだ。版元は裏表紙にあるYUTORIなのだと思うが、奥付には特に記載はなかった。この本を作って販売するための名前かもしれない。
ゆとり教育、あるいはゆとり世代は、一般的にあまり肯定的に語られることはないそうで、ゆとり教育自体が、今はもう教育の現場から消え去っている。ある意味、失敗だったということなのだろうか。あるいは一時的な実験に過ぎなかったとか。そういう世の中のどちらかというと否定的な見方に対して、自分たちの内にある共通のフィーリング、あるいは生き方のようなものを、それ以外の世代の人々に知らせようというのが本の目的のようだ。この本によると、自分たちには共通のフィーリングのようなものがあるけれど、それを他者に理解してもらうのが結構難しい、行き違いがある、という悩みがあったそうだ。
本はとてもよくできていて、ひと通り読んだ結果、なんとなくボンヤリと「ゆとり」のことが理解できた気がするが、本の中で紹介されているQRコードやURLによる様々な活動グループやネットマガジンを網羅したわけではないので、まだ理解の途上といったところだ。またこの本も含めて、ゆとりの思想は「=実態」のようなもので、従来型の観念的な思想と違って、きっちり的を絞って強く主張する、というやり方ではないので(その方法論こそがゆとり的かもしれないが)、受け手のわかり方も直線的でなくてもいいのかもしれない。
ゆとりの思想の特徴として、何となく感じたのは、現状承認的というか、世の中に対するとき「反論」とか「対抗」とかではなく、それはそれとして認め、だけどそれに自分がハマらなければ違うことをするという態度があるかもしれない。それ以前の世代が、古ければ古いほど、何か主張する際は、自分以前や現状に対して「反」または「否定」から入り、それに対しての違いを言うことで自分の正当性を認めさせようとしてきたとしたら、そこらへんが今のゆとりとは違う。
たとえばゆとりたちは就職試験のとき、普通にリクルートスーツを着て、普通に面接を受け、普通に入社する。リクルートスーツや面接に盾をつくことはない。だけど会社に入ってみて、これは違うぞ、合わないなと感じたら、とりあえず会社を辞めて、それから違うことを考え始める、といったようなことだ。他者のやり方にあれこれ言うことはないが、かといって他者のやり方に縛られることもなく、わが道を行く。これが『新・ゆとり論』を読んで感じたボンヤリとしたイメージ。
そんなとき、たまたまWWDというファッション誌の記事を読んだ。コムデギャルソンの川久保玲のインタビューがあって、それを読んでいて、ゆとりとの違いが(世代的なことだけではないかもしれないが)鮮明になった気がした。川久保玲は1942年生まれの76歳。ゆとりたちとは半世紀のギャップがある。インタビューはアメリカ版のWWDからの翻訳で、「コムデギャルソンの50年」というタイトルだった。ここでまた話が脇にそれるが、このインタビュー、アメリカ版なので英語によるものがオリジナルだが、川久保玲は日本語で語り、それを夫でビジネスパートナーでもあるエイドリアン・ジョフィ(南アフリカ出身のイギリス人)が通訳していた。ジョフィは若い頃から日本語とチベット語に通じているらしい。川久保玲は言ったことが正確に訳されることに神経を使っていたようで、WWD日本語版の訳も、しゃべり言葉のニュアンスは一切つけず、「、、、、した。」「、、、、だった。」といった調子で、最初はなんだこれと思ったが、まあ、すぐに慣れた。
このインタビューの中で、川久保玲が言っていたことで、昔の(ヨーロッパの)ファッション業界には、少数ながらクリエイションを理解している素晴らしい人々がいて、今までに見たことのないものを作ることに挑戦していたが、現在はもうそういう人はいない、という話があった。インタビュアーがなぜ今はいないのか、という質問をすると、おそらくSNSの広がりとリスクを恐れるからではないか、と答えている。また「クリエイションの探求がなければ、人類の進歩はあり得ない」と語っていたことも印象的だった。
何が印象的だったかと言えば、「人類の進歩」ということへの強い肯定感だ。そのこととクリエイションの探求がつながっている。今まで見たこともないようなものを生み出すことがクリエイションの意味であり、それによって人類は進歩する。そう言ってるわけだ。
また川久保玲は、自分に対するレッテルを拒否しているが、「パンク」だけは認めているらしい。「パンクは一つの精神であり、生き方」と語っている、とイギリスの新聞Gurdianの日本語訳の記事にあった。ストリートファッションなど今人気のイージーファッションには怒りを感じている、とも。そういうものは「因襲を打破するとは言えない」そうで「まったく反逆的ではなく」、ファッションが気軽だと、人はものを考えなくなり進歩が生まれない、これはファッション以外のことにも言える、と答えていた。
こういった発言は、もしかしたら「ゆとりの思想」と出会う前だったら、スルッと通過してしまったかもしれないもの。しかし「ゆとり」後に読むと、どこか違和感がわいてくる。人類の進歩への肯定感、過去を否定し先に進むことへの強い思い。確かに人類はもっと先に進んでいけるし、これまでもそうやって進歩してきた、というのはある意味事実かもしれない。ただ、現時点の感覚でいうと、それがこの先の人類にとっての一番の目標になるのかどうかは不確定事項に思える。科学でも、テクノロジーでも、世界経済でも、メインストリームの見方ということで言えば、そういう部分は確かにあるとしても。
『新・ゆとり論』にはサブタイトルがあって、「思想でつながり、ゆるく生きる若者たち」とある。また扉を開いたところには「そうだ、われわれはどこまでも下から行こう。庄屋には庄屋のみちがあろう。夜明け前、島崎藤村」という言葉があった。川久保玲の考えや言葉と比べると、それぞれが直接的に対抗しているわけではないものの、この二者には大きなギャップがあることが感じられる。
ゆとりたちにとっては、反逆や因襲への打破ではなく、つまり前世代から引き継いでいるものに反抗することなく、わが道を行くことが「思想」ということになるのだろうか。
たとえば『新・ゆとり論』の中の「結婚、恋愛、家族の自由化」という項で、「結婚式に自由を」というツイッターのハッシュタグが、去年、話題になったことがあげられていた。自由なウェディング提案をするある企業が火つけ役となって、既存の結婚式への議論が起きたそうだ。え、今ごろ、まだ、そんなことを??? とは思うものの、(どこまでも下から行こう、であれば)現実の世界では既存の結婚式が羽振りを利かせている、ということなのだろうし、なんか違うよね、と思う者たちが、式場ありきのプランではない自由なプラン、たとえばフェスのような自由参加型とか、クラウドファウンディングで結婚資金を集めたり、といったアイディアを新しい考えとして受け入れ、賛同していても不思議はない。同性同士の結婚式も、自由なプランの中では違和感なくできそうだ。
また本の中で、「平成最後」とか「平成ラストサマー」「平成が終わルンです」といったワードやイベントが積極的、肯定的、ある種の熱狂として使われていて、そもそもこの本も、平成が終わるまでに出版するというミッションの元に企画が進んだようなのだ。それはゆとり世代が、平成の始まるあたりで生まれているため、自分たちは平成の子、という意識があるからだろう。その意識や感覚については、当事者ではないので何とも言えない。こういった既存の日本式年号に対しても、不合理とか、古くさいとか、恥ずかしいとか言わずに、スルリと受け入れている。これもゆとり世代なのかな、と思う。
(次回につづく)