20191018

インターネットと出会いのロマン(2)


『ドット・コム・ラヴァーズ/ネットで出会うアメリカの女と男』によると、オンライン・デーティングはまずmatch.comにプロフィールや写真などを載せて登録し、自分から、あるいはメンバーからのメールで始まる。ここで第一段階に当たるメールの役割はとても大きい。著者の吉原真里さんは、自分から書く場合も、相手からメールがあった場合も、じっくりと取り組む。相手から初めて来たメールも、自分の出したメールへの返事も、内容、言葉づかいなどじっくり検討して、その人となりを想像する。そういったメールを何回か交わして、お互いが気に入れば、デートということになる。
*ここでいうメールとは、携帯やスマホのSMS(ショートメッセージ)ではなく、パソコンを使った比較的長さのあるものが中心ではないかと思った。

吉原真里さんによれば、メールで受けた印象と、実際に会ったときの印象は、たいていとても近いという。これはわたしも何回も経験したことだ。出会い系ではないけれど、メールだけのやり取りだった人と、実際に会うという経験はたくさんしている。海外からの人も含めてだ。その印象は、「メールと変わらない」である。つまりメールというのは、日本の多くの人が心配するほど信用ならないものではなく、むしろ手紙などより、送受信のタイミングも含めて、相手の性質や傾向がストレートにわかるメディアではないかと思うのだ。

吉原真里さんは、マッチ・ドット・コムの経験から、メールの文章と実際の人物との誤差はあまりない、と書いていた。メールは、結構その人となりが現れるものだ。未知の人から初めてメールで連絡を受けることは、わたしの場合それなりに多いが、最初のメールである程度その人の感じはつかめる。昔は手紙の形式そのままで書いてくる人もいた。前略から始まって敬具で終わるような。さすがに今はそういう人はいないが。何回かやりとりが進めば、「お世話になっております」は、ほぼ9割くらいで使われている定型文だ。締めは「どうぞよろしくお願いいたします」。それが常識や安全を保証している。ということになっている。

しかしメールの肝は本文だと思う。多分、メディアとしては、手紙と電話、あるいはチャットの間くらいの感じだろうか。手紙はもはや書く人が少なくなっていると思うので、メールは書き言葉で人に何か伝えるための、標準的な媒体となっている。日本では文章が長いことは嫌われる、という風土があるので、メールも長くならないよう気をつける。もし長くなってしまった場合は、「長文にて失礼します」的な謝罪文が入る。英語圏でも、メールという即時性の強いメディアの特徴から、そこまで長いメールを書く人はいない。とはいえ、かなり長い文章、入り組んだことについての議論もメールでなされるし、そこで重要なことも決定もする。別に問題はない。

このように見ていくと、メールでのやり取りから相手の特徴を知り、気に入ればデートまで進むという手順は、それほど問題のある行為とは思えない。「メールでの出会い」というステップは充分有効だと思う。そして「出会いのロマン」についても、そこで生まれ、醸成されることもあるだろう。顔を見るまでは「無」の状態ではない。なんかこう、、、、脳と脳がつながる、という感覚がある。

人との出会いのロマンが、インターネットで可能だとしたら、たとえば本との出会いのロマンはどうだろう。というのは、強力な「紙の本」派の人々の発言には、本との出会いのロマン的な話がよくあるからだ。それはネットではなく、街の本屋でのみ起きるらしい。

確かに本屋さんを特に目的なくブラブラしていて、またとない本と出会うことはある。その喜びは大きなものだ。偶然見つけた、という出会い感が、何か得したような感情と結びつくこともあるかもしれない。自分自身の経験に照らしてみると、実際には回数はそれほど多くはないのだが。その理由の一つには、本屋さんの品揃え自体が、ここ10年、20年で変わってきて、売れる本が中心になっているからということがある。また自分の読書傾向の変化や、(新旧を問わない)一極集中的な本探しの態度にも原因があるかもしれない。また洋書のことで言えば、まず一般書店の少ない在庫(ごく一般的な、あるいは何かで話題になった本)の中から、自分の求めるものを探すのは不可能に近い。

わたしの本との出会いは、ここずっと、ほぼインターネットを通じてのものになっている。一つはネットの記事やブログなどで紹介されていた本というルートがある。あるいは本の紹介ではなく、ある人物に興味を持った場合に、その名前を検索して本にたどり着くといった。あるいはある事象や事件に興味を持った場合、それを頼りに検索して本にたどり着くとか。するとそこにゾロゾロと関連本が現れたりすることもある。

最近の経験では、さっきあげた吉原真里という人物を通じて、ほんの2、3時間のうちに、10冊近い本に出会っていた。本人の書いたものだけでなく、本人が紹介していた本も含めてだ。そのうちの半分くらいは、即座にKindleのサンプルをダウンロード。うち2冊をまずは購入。紙の本しかなかったものは、その中の2冊をアマゾンのマーケットプレイスで購入した。またとりあえず中身を見てみるために、最寄りの図書館に2冊ほど予約を入れたりもした。

その本の中で、この機会がなければ触れることがなかっただろうというものもある。たとえば柴崎友香のノンフィクション小説『公園に行かないか? 火曜日に』とか、中島京子の『夢見る帝国図書館』は、本屋さんで棚にあっても、自分が手に取る可能性は少ない本だと思う。どちらも小説家としては興味の範囲外だったから。吉原真里さんのブログの紹介文を読んで、まずはサンプルを手に入れた。この2冊は比較的新しい本であるが、興味を持つのは新しい本とは限らない。マーケットプレイスで購入した本の一つは2010年出版のもの。それほど古いとは言えないが(とはいえ9年前)、今の書店の時間の流れでいうと相当古い本に属するだろう。よほどのロングセラーか、人気作家か、何か理由がなければ5年以上、いや3年でも、新刊が棚に置かれ続けることは簡単ではない。

こういった事情も、つまり新刊がどんどん出版され、本屋のスペースは限られているため、古い本と出会いにくいこと、それもまた本のとの出会いという意味では、マイナスに働いてしまう。話題の新刊を中心に探している人にとっては問題なくても、そういう流れとは関係なく、自分の関心によって、本を探し選んでいる人間にとっては、古い本と出会えないのは決定的なマイナス要素になる。

最初に書いたように、確かに本屋で思ってもみなかった本と出会うというロマンはある。しかしそれはネットでも、ほぼ同じことが起こり得る。

人でも、本でも、出会いのロマンというものがあるとするなら、それはどこでも起きる。リアルワールドであれ、ネットの中であれ。ネットで出会った人より、親戚や友だちの紹介で出会った人の方が、より信用できるとか、自分に合うはずとか、おそらく言えないと思う。本に関して言えば、町から本屋さんがなくなっていくのは寂しいことかもしれないが、それは業態としての本屋さん、あるいは本というメディアに変化が起きているからかもしれない。昔ながらの棚に本がいっぱい並んでいて、そこから好きな本を取り出して買う、という仕組だと、今の本の世界のすべてはまかなえない。

商売として成り立たせようとすれば、なおのこと、置ける本が限定されてしまうし、そうするとわたしのような者が買いたい本は置けないことになる。バラエティの点でも、深度の点でも、新旧の品揃えの点でも、難しい。本だけで商売する場合、限られたジャンルの本のみ、古いものから新しいものまで、深いところまで、細部まで届くような品揃えの本屋、というのは可能かもしれない。たとえば「天文学」に特化した本屋とか、「ピアノに関する本」のみ集めた本屋とか。しかしそういう書店は、ネットの方が効率よく商売できそうなことは、ちょっと想像すればわかる。リアル書店でそれが大手町に一軒あったとして、そこに日常的に行ける人は限られてしまうから。かといって「天文学」専門の書店が、全国でチェーン展開するというのも難しいだろう。

「出会い」というロマンについて、人との出会い、本との出会いをとおして考えてみた。ロマンというのは、最初に書いたように、まだ起きていないことに対して夢や希望を持ったり、いろいろ想像して理想の世界を自分の中で描くことだ。ロマンは一瞬で終わるものではなく、自分の中で紡ぎ、育てていくもの。何かと対面していい印象をもったとき、そこからどうその思いを発展させたり、確認したりしながらさらなる強い思いにまで膨らませていくか、そういうことじゃないかと思う。顔を合わせてなら好き嫌いがわかるけれど、メールの文章じゃわからない、ということでは多分ない。その人の中で何が判断の基準になるか、にもよるとは思うけれど。

20191004

インターネットと出会いのロマン(1)

ここでいうロマンとは、英語のromanticのことで、つまりまだ起きていないことに対して夢や希望を持ったり、いろいろ想像して理想の世界を自分の中で描くといった意味だ。ときに空想的とか、現実離れした、と見られる感情や心情も含まれる。

次に「出会い」について考えてみよう。出会いとは、実際に何かとあるいは誰かと「出くわして」知り合うことだろうか。この「出くわして」というのはニュアンスとして、単にmeetするのではなく、思いがけなく出会ったり、遭遇したりすることで、英語でいうならencounterが近いだろう。

そしてインターネット。これは説明するまでもないが、ただ人によって使い方がかなり違うので、同じインターネットといってもデバイスも違えば、使う機会、使うサイトやアプリ、目的、使用量などに大きな差があると思われる。それによってインターネット体験は異なってくる。

今回ここで書いてみようかな、と思っているのは、インターネットで「正しい」出会いはできるか、というような問いだ。正しいというのは、人がリアルワールドで「出会い」と言っているものと同じことができるのか、という意味だ。なぜ正しいという言葉を使ったかというと、インターネットで起きることは、信用ならない、という感情が(論理ではなく)特に日本では根強いと思われるから。

このアイディアが浮かんだ一つのきっかけに、最近読んだ吉原真里さんの『ドット・コム・ラヴァーズ/ネットで出会うアメリカの女と男』(中公新書、2008)という本がある。この本は、かの有名なmatch.com(マッチ・ドット・コム:1995年アメリカでサービス開始、現在世界中に1500万人の会員。日本では2002年にサービス開始)を、アメリカで自ら体験した著者が、出会った人(男)たちを例にあげながらレポートしている。著者はアメリカ文化研究者で、ハワイ大学の教授であるが、この本は出会い系ネット・コミュニティについての研究書ではなく、まっとうな、著者自身の体験記だ。

この本の序章に、こういったオンライン・デーティングは、「そうでもしないとデートにありつけない情けない男女のための手段というイメージ」が2000年ごろまでは優勢だったと書かれていて、著者自身にもそのイメージがあったそう。それがニューヨークに1年間研究休暇で滞在していた2003年、ちょっとしたきっかけから挑戦してみることにしたという。

日本人的にいうと、「情けない男女」うんぬんより、インターネットで知り合った人なんて信用できない、という見方のほうが強かったのではないか、当初は。現在はだいぶ違うと思うが。生活する過程で(自然に)知り合うのではなく、条件を設定して相手を探すという手法として、日本では昔から「お見合い」というシステムがあった。ただしお見合いの場合は、知り合いや親戚からの紹介とか、直接の知り合いではなくても、然るべき人を通してといった、「どこの馬の骨」ではない人に限られていた。そこはオンライン・デーティングとはまったく違う。逆方向だ。太鼓判が先に押されている。

かなり前に(10年以上前、もっと前か)、コンピューター見合いというのは聞いたことがある。人と人の(男女の)マッチングという意味では、オンライン・デーティングと同じ仕組と言えるわけだけれど、目的がこの場合は、婚活だ。そこが日本らしいと思う。今「コンピューター見合い」で検索してみると、「Yahooお見合い」とか「ご縁を育むWEBシステム」(日本結婚相談所連盟)などが上位に出てくる。「日本結婚相談所連盟」というの名前もなんかスゴイ。要するに、知り合いのおばさんがWebシステムに変わったということだ。

オンライン・デーティングは特に結婚を目的としたものではない。いい人と巡り合って、最終的に結婚に至る、というケースもあると思うが、それが目的ではない。生活を豊かにするパートナー探しといったところだと思う。日々の楽しい生活には、それを支える仕事、趣味、学びの場、友人、食べものや衣服、インテリアなどいろいろ必要だと思うが、デートする相手もその中の一つということだろう。特にアメリカでは、デートする相手がいるかいないかは、重要項目の一つなのかもしれない。ニューヨーク生まれで、アメリカでの暮らしが長い吉原真里さんが、オンライン・デーティングに興味をもち、実行するのはごく自然なことに見えた。

おそらく結婚相談所ながれのオンラインお見合いシステムは、婚活だからこそであって、日本でデートのためのマッチング・システムが盛んだ、とはあまり思えない。はっきりとは言えないけれど、たとえデートのみの目的で、と言っていたとしても「結婚」という到達地点をまったく想定しないことはあるだろうか。日本の良識あるいは常識を考えると、結婚に関係ない恋愛関係をネットで精力的に求める精神性はあまりないように見える。自分の親に、恋愛対象を求めてオンラインに登録してる、結婚するつもりはないけど相手が欲しい、と言ったら、「遊び」と取られてしまわないだろうか。

今はずいぶんマシになったと思うけれど、インターネットが日本に普及し始めた頃は、多くの人が、このツールあるいはメディアにある種の恐れと不安を抱いていた。SNSが普及するよりもっと前のことだ。日本の人は「不特定多数」と対することに慣れていないので、顔の見えない相手、未知の機関はまずは「要注意」事項に分類される。クレジットカードがオンラインで使えるようになっても、恐いから使わない、といった。PayPalのような、個人に便利なネットの決済サービスがなかなか広がらなかったのも、ネットバンキングの利用者が少ないのも、どこかネットでのやり取りに、特にお金など重要なものが介するときには「恐い」とか「不安」が増すのだと思う。

銀行の方もやっているのが日本人で、利用者も日本人ということで、ネットバンキングの口座を作る場合も、手続きの間で、必ずアナログ手段が使われていた。葉っぱの坑夫を始めた2000年頃、eBankというネット銀行ができて(現在は、楽天銀行になっている)、すぐに口座を作った。本の購入者に、ネットから入金してもらえる仕組を導入したかったから。その前後にPayPalにも口座を作っていて、それも支払いの仕組として導入した。PayPalがネット上で簡単に口座を作れるのに対して、eBankは郵便やハンコを使ったアナログ手段が求められ、かなりウンザリしたのを覚えている。ああ、これが日本だな、と。しかし一般の日本人の心情からすれば、これくらいアナログ手段を使っていても、それでもまだ信用できない、ということかもしれない。実際、せっかく作った口座だが、eBankやPayPalを利用して振り込みをする人は、何年もの間、ほとんどいなかった。

不特定多数の相手に対して、ハードルが高い、なかなか信用できない、という日本の人の心性は(意識していないかもしれないが)かなり根強いものだと思う。それが人でもお金でも、やり取りの際の障害になってきた。そこには知り合いや関係者、関係のある人のみ信用する、という村的な世界観があるのだと思う。それはインターネットという世界を充分に使いたい、という場合の障害にもなり得る。携帯電話(スマホ)、ミクシー、Facebook、Lineといったコミュニティ系のものは大いに利用されるが、そうではないオープンな仕組はそれほど興味を持たれていない。メールアドレスが常に公開されていて、不特定多数の人とのやり取りが普通に行なわれている、たとえば英語圏とはだいぶ違うと思う。これまで葉っぱの坑夫では、アメリカ在住の作家たちと、メールを通じて直接やり取りすることが多かった。それは大学などに勤務している作家たちが、大学のファカルティーのページで個人のメールアドレスを公開しているから。あるいは作家自身のウェブサイトで、メールアドレスを公開しているなど。日本では特別な人を除いて、そういう人はほとんどいない。Twitterが出来たとき、参加する人たちはいたが。

「どこの馬の骨」からメールなどもらいたくないのだと思う。しかるべき機関なり代理人を通してしかコミュニケーションを持ちたくない、もつ必要性も感じない、といったところだろう。まずメールというツールについても、便利ではあるけれど、信頼性が高いとは言えない、と思っていると思う。なぜなのか、と言えば、なんの繋がりもない未知の人からのメールは、信用できるか判断ができない、あるいは難しいから。ではこの世界は、どういうもので成り立っているのか。自分の知る代理人やしかるべき機関は信用するが、バラバラに散らばる個人は当てにならない。そういうあり方が伝わってくる。しかしこの世界は、バラバラの個人によっても成り立っている。
(つづく)