インターネットと出会いのロマン(2)
『ドット・コム・ラヴァーズ/ネットで出会うアメリカの女と男』によると、オンライン・デーティングはまずmatch.comにプロフィールや写真などを載せて登録し、自分から、あるいはメンバーからのメールで始まる。ここで第一段階に当たるメールの役割はとても大きい。著者の吉原真里さんは、自分から書く場合も、相手からメールがあった場合も、じっくりと取り組む。相手から初めて来たメールも、自分の出したメールへの返事も、内容、言葉づかいなどじっくり検討して、その人となりを想像する。そういったメールを何回か交わして、お互いが気に入れば、デートということになる。
*ここでいうメールとは、携帯やスマホのSMS(ショートメッセージ)ではなく、パソコンを使った比較的長さのあるものが中心ではないかと思った。
吉原真里さんによれば、メールで受けた印象と、実際に会ったときの印象は、たいていとても近いという。これはわたしも何回も経験したことだ。出会い系ではないけれど、メールだけのやり取りだった人と、実際に会うという経験はたくさんしている。海外からの人も含めてだ。その印象は、「メールと変わらない」である。つまりメールというのは、日本の多くの人が心配するほど信用ならないものではなく、むしろ手紙などより、送受信のタイミングも含めて、相手の性質や傾向がストレートにわかるメディアではないかと思うのだ。
吉原真里さんは、マッチ・ドット・コムの経験から、メールの文章と実際の人物との誤差はあまりない、と書いていた。メールは、結構その人となりが現れるものだ。未知の人から初めてメールで連絡を受けることは、わたしの場合それなりに多いが、最初のメールである程度その人の感じはつかめる。昔は手紙の形式そのままで書いてくる人もいた。前略から始まって敬具で終わるような。さすがに今はそういう人はいないが。何回かやりとりが進めば、「お世話になっております」は、ほぼ9割くらいで使われている定型文だ。締めは「どうぞよろしくお願いいたします」。それが常識や安全を保証している。ということになっている。
しかしメールの肝は本文だと思う。多分、メディアとしては、手紙と電話、あるいはチャットの間くらいの感じだろうか。手紙はもはや書く人が少なくなっていると思うので、メールは書き言葉で人に何か伝えるための、標準的な媒体となっている。日本では文章が長いことは嫌われる、という風土があるので、メールも長くならないよう気をつける。もし長くなってしまった場合は、「長文にて失礼します」的な謝罪文が入る。英語圏でも、メールという即時性の強いメディアの特徴から、そこまで長いメールを書く人はいない。とはいえ、かなり長い文章、入り組んだことについての議論もメールでなされるし、そこで重要なことも決定もする。別に問題はない。
このように見ていくと、メールでのやり取りから相手の特徴を知り、気に入ればデートまで進むという手順は、それほど問題のある行為とは思えない。「メールでの出会い」というステップは充分有効だと思う。そして「出会いのロマン」についても、そこで生まれ、醸成されることもあるだろう。顔を見るまでは「無」の状態ではない。なんかこう、、、、脳と脳がつながる、という感覚がある。
人との出会いのロマンが、インターネットで可能だとしたら、たとえば本との出会いのロマンはどうだろう。というのは、強力な「紙の本」派の人々の発言には、本との出会いのロマン的な話がよくあるからだ。それはネットではなく、街の本屋でのみ起きるらしい。
確かに本屋さんを特に目的なくブラブラしていて、またとない本と出会うことはある。その喜びは大きなものだ。偶然見つけた、という出会い感が、何か得したような感情と結びつくこともあるかもしれない。自分自身の経験に照らしてみると、実際には回数はそれほど多くはないのだが。その理由の一つには、本屋さんの品揃え自体が、ここ10年、20年で変わってきて、売れる本が中心になっているからということがある。また自分の読書傾向の変化や、(新旧を問わない)一極集中的な本探しの態度にも原因があるかもしれない。また洋書のことで言えば、まず一般書店の少ない在庫(ごく一般的な、あるいは何かで話題になった本)の中から、自分の求めるものを探すのは不可能に近い。
わたしの本との出会いは、ここずっと、ほぼインターネットを通じてのものになっている。一つはネットの記事やブログなどで紹介されていた本というルートがある。あるいは本の紹介ではなく、ある人物に興味を持った場合に、その名前を検索して本にたどり着くといった。あるいはある事象や事件に興味を持った場合、それを頼りに検索して本にたどり着くとか。するとそこにゾロゾロと関連本が現れたりすることもある。
最近の経験では、さっきあげた吉原真里という人物を通じて、ほんの2、3時間のうちに、10冊近い本に出会っていた。本人の書いたものだけでなく、本人が紹介していた本も含めてだ。そのうちの半分くらいは、即座にKindleのサンプルをダウンロード。うち2冊をまずは購入。紙の本しかなかったものは、その中の2冊をアマゾンのマーケットプレイスで購入した。またとりあえず中身を見てみるために、最寄りの図書館に2冊ほど予約を入れたりもした。
その本の中で、この機会がなければ触れることがなかっただろうというものもある。たとえば柴崎友香のノンフィクション小説『公園に行かないか? 火曜日に』とか、中島京子の『夢見る帝国図書館』は、本屋さんで棚にあっても、自分が手に取る可能性は少ない本だと思う。どちらも小説家としては興味の範囲外だったから。吉原真里さんのブログの紹介文を読んで、まずはサンプルを手に入れた。この2冊は比較的新しい本であるが、興味を持つのは新しい本とは限らない。マーケットプレイスで購入した本の一つは2010年出版のもの。それほど古いとは言えないが(とはいえ9年前)、今の書店の時間の流れでいうと相当古い本に属するだろう。よほどのロングセラーか、人気作家か、何か理由がなければ5年以上、いや3年でも、新刊が棚に置かれ続けることは簡単ではない。
こういった事情も、つまり新刊がどんどん出版され、本屋のスペースは限られているため、古い本と出会いにくいこと、それもまた本のとの出会いという意味では、マイナスに働いてしまう。話題の新刊を中心に探している人にとっては問題なくても、そういう流れとは関係なく、自分の関心によって、本を探し選んでいる人間にとっては、古い本と出会えないのは決定的なマイナス要素になる。
最初に書いたように、確かに本屋で思ってもみなかった本と出会うというロマンはある。しかしそれはネットでも、ほぼ同じことが起こり得る。
人でも、本でも、出会いのロマンというものがあるとするなら、それはどこでも起きる。リアルワールドであれ、ネットの中であれ。ネットで出会った人より、親戚や友だちの紹介で出会った人の方が、より信用できるとか、自分に合うはずとか、おそらく言えないと思う。本に関して言えば、町から本屋さんがなくなっていくのは寂しいことかもしれないが、それは業態としての本屋さん、あるいは本というメディアに変化が起きているからかもしれない。昔ながらの棚に本がいっぱい並んでいて、そこから好きな本を取り出して買う、という仕組だと、今の本の世界のすべてはまかなえない。
商売として成り立たせようとすれば、なおのこと、置ける本が限定されてしまうし、そうするとわたしのような者が買いたい本は置けないことになる。バラエティの点でも、深度の点でも、新旧の品揃えの点でも、難しい。本だけで商売する場合、限られたジャンルの本のみ、古いものから新しいものまで、深いところまで、細部まで届くような品揃えの本屋、というのは可能かもしれない。たとえば「天文学」に特化した本屋とか、「ピアノに関する本」のみ集めた本屋とか。しかしそういう書店は、ネットの方が効率よく商売できそうなことは、ちょっと想像すればわかる。リアル書店でそれが大手町に一軒あったとして、そこに日常的に行ける人は限られてしまうから。かといって「天文学」専門の書店が、全国でチェーン展開するというのも難しいだろう。
「出会い」というロマンについて、人との出会い、本との出会いをとおして考えてみた。ロマンというのは、最初に書いたように、まだ起きていないことに対して夢や希望を持ったり、いろいろ想像して理想の世界を自分の中で描くことだ。ロマンは一瞬で終わるものではなく、自分の中で紡ぎ、育てていくもの。何かと対面していい印象をもったとき、そこからどうその思いを発展させたり、確認したりしながらさらなる強い思いにまで膨らませていくか、そういうことじゃないかと思う。顔を合わせてなら好き嫌いがわかるけれど、メールの文章じゃわからない、ということでは多分ない。その人の中で何が判断の基準になるか、にもよるとは思うけれど。