舞台芸術とビデオ映像
ここ最近の3ヶ月くらい、つまり新型コロナウイルスが地球規模で広がりはじめてから、その影響で各国の劇場やコンサートホールが閉鎖するようになって、その代わりとして、非常にたくさんの舞台芸術をネットで鑑賞することができるようになった。最初は海外のものばかりだったが、少しして日本でもコンテンツの無料公開が出てくるようになった。
個人的には、コンサートや演劇をホールに見にいくという習慣はなくなっていた。過去に何を見たかと言えば、海外からの演奏家のソロリサイタルとか、アート系の演劇集団の作品とか、日本のバレエ団やインディーなダンスカンパニーのもの、あとは、、、旅先のロンドンやサンフランシスコで小劇団の前衛演劇やミュージカルなど。オペラの経験はない。
しかしここにきて、インターネット上でたくさんの舞台芸術(主としてヨーロッパ発の第一級作品)が無料で見られるという事態になり、演目とスケジュールとアドレスをチェックして追いかけるという日々がつづいている。
これだけ舞台芸術と離れていた者が、ここまで密着するものかと自分でも驚いている。その理由の一つは、作品自体の質の高さに加えて、舞台を映像化する技術のレベルがかなり上がっていることと関係している。作品がよくても映像化されたビデオが凡庸だったり、質が低かったら楽しみはずいぶん減るだろう。
ただ作品自体のよさはもちろん大事であり、前提でもあり、演出の面白さや新奇性、コスチュームのアイディアや美しさ、照明や音質も含めた舞台の効果、そして演技やダンスのレベルが高くなくては、いくら映像化が優れていても楽しめるものにはならないだろう。
作品自体の質の高さがあって、それを映像化したとき、動画作品として更に楽しめるものになっているというのが理想だ。作品の質が高く、非常によく練られた舞台芸術の場合、その映像化についても神経がつかわれているケースが多い。クレジットを見ると、普通の劇場映画なみのスタッフロールがあったりする。ビデオを撮るディレクター、撮影カメラマン、サウンドレコーディングのディレクターやアシスタント、とずらりと並んでいる。
この「質の高さ」は大切で、それなしにはいくら「非常事態下」だといっても、これほど舞台作品を見ることにはならなかったと思う。いやこの状況下だからこそ、質の高さは大事なのかもしれない。「芸術は人間にとって、社会にとって必要なものだ」という、芸術の存在価値を訴える主張があるとしたら、それは質によって示されなければ意味がない、通じることはないだろう。その意味で、ドイツを中心に、ヨーロッパ各国は必死の取り組みをしているようにも見える。最高レベルのものを提供する、という使命感のようなものを現在のネットのストリーミングを見ていて感じる。
日本の舞台芸術の提示の仕方はどうか。昔の日本の舞台中継では、カメラは1台くらいしかない感じで、作品の魅力が伝わりにくいものだった。多少のズームインはあっても、カメラ据え置きのような。つまり「中継」あるいは「記録」というところにフォーカスされているのだ。それは今でもあまり変わっていないかもしれない。この分野の開発、中でも人材の開発が遅れているのかもしれない。それとも人材はいても、舞台をクリエイティブに撮るというプランやアイディアがないのだろうか。
オペラやバレエを、劇場で見ることのできる人は限られている。チケットは安くないし、劇場がミュンヘンやアムステルダムなど海外にあればなおのこと機会は減るだろう。また1年に何回も通うことも難しい。もし見たい演目がバーチャルな世界で、それほど高くなく、インターネットを通して日常的に見ることができたら、かなり素晴らしいのではないか、と今回の状況下で思った。そしてそれはきっと、未来の聴衆をつくることに貢献するはずだ。
現在は無料で提供されているものが多いが、この方式で見て楽しむ人が劇的に増えれば、いずれ適切な料金を払って、映画を見にいくようなつもりで(それくらいの料金で)見たいという人は出てくると思う。すでにバイエルン州立歌劇場は、STAATSOPER.TVというサイトで登録なしでコンテンツを配信している。演目はほぼ週ごとに変わり、どれも素晴らしい。歌劇場は現在、新型コロナウイルスの影響を受けているアーティストなどを支援するため、PayPalによる寄付を募集している。しかし日本のPayPalでは寄付をしたくても国内法規よってできない。「国内法規による規制のため、日本およびシンガポールからのPayPal経由の寄付はお受け取りできません。」とのこと。
PayPalが日本法人化される前(アメリカで登録していたとき)は、問題なく寄付はできていた。あるシステムが日本化されることで、世界のコミュニティの一員になることが不可能になる、というのはどんなものだろう。今回の新型コロナ関係のことでは、日本のITネットワークの社会化が非常に遅れていることがわかったけれど、ITやインターネットが絡むと、日本ではあらゆる面で選択肢が少なくなり、スムーズにことが進まない。
クレジットで支払いというのは海外の企業に対して問題なくできるが、寄付でPayPalを通したもの(海外では非常に多い)は一切利用できないということだ。それによって「なぜか日本からは寄付がない」と思われてしまうことになる。
サブスクリプション方式でクレジットで支払う場合は問題がなくても、寄付によって成り立っているネット上の劇場やコンサートホールには、感謝と応援の意を表したくとも、日本の法律が邪魔してできない。悲しく苛立たしいことだ。
現在は支払いも寄付もなく、たくさんのヨーロッパ発の演目を鑑賞している。オペラ、バレエ、演劇と見てきて、最近のヨーロッパでの舞台芸術がどんな方向にあるのか、だんだんわかってきた。
まず感じたのは、オペラでもバレエでも、単に質の高い踊りを見せる、歌を聞かせるということでなく、総合芸術としてのレベルを高めることに力を注いでいるのではないか、ということ。演目がスターダンサーや名人的歌手の力で支えられているというより、もっと全体的な仕上がりにフォーカスしているように見える。
オランダ国立バレエ団の『コッペリア』全幕は、その演出と衣装も含めた美術が素晴らしかった。ビジュアル作品と言っていい。もちろん、踊り手たちの技術や演技のレベルは言うまでもなく高い。しかしそれは当然のことなのだ。振り付けも面白く、ドリーブの音楽はこんなに良かったっけ?という風に聞こえた。そして舞台装置は仕掛けも含めて、童話の世界のようだった。子どもたちが見たら、夢中になるのではという造りになっていた。
衣装もヘアもユニークで、トップモードのようなオシャレ感があった。これまでに見た『コッペリア』では、自動人形(コッペリア)の生みの親コッペリウス博士は、老人であることが多かった。オランダ国立バレエ版では、背のひときわ高い、かっこいい男性がこの博士を演じていた。その容姿とあいまって、博士の踊りの素晴らしさにも目を奪われた。また、子どもたちの出演がとても目を引いた。子どもというのは体型的にも、からだの動きとしても、また踊りの習熟度の点でも大人のダンサーとは違う。その違いが舞台で、演出に活気を与えていた。
この作品のビデオ化について、特別変わった演出があったとは思わないが、舞台作品を心理的距離を感じさせずに、うまく見せていたと思う。おそらくどのシーン、どの踊り、どのキャラクターをどのように、どのカメラで、どの角度と距離で撮るか、隅々まで計算されていたものと思われる。
チューリッヒ歌劇場のバレエ『ロメオとジュリエット』は、プロコフィエフの音楽が好きなので見てみた。この作品の中の「騎士の踊り」の音楽がとりわけ好きだ。凄みがあって、血湧き肉躍るという感じで、狂気を含んだ響きが素晴らしい。これぞプロコフィエフという感じで、通常男性の群舞で踊られる。この作品は全幕で見たことはなかったので、いい機会だと思った。
チューリッヒ・バレエ団の『ロメオとジュリエット』は、舞台装置はシンプルでモダンなものだった。天井から吊るされた大きなシャンデリアが、唯一の目立つ装置。象徴的につかわれているのではないかと思った。衣装もモダンで全体として黒ベースだった。最近のバレエ作品は、どの演目でも、男性ダンサーが多く起用されていることが多く、演出や振り付け上も男性の見せ場がたくさんある。男性ダンサーの数が増えていて、バレエ団が抱えている優秀な踊り手を生かすためかもしれない。また男性の優雅で力強い踊りは、現代に合っている。
チューリッヒ・バレエ団のロメオでは、踊りに加えて演劇的要素が強く出されているように感じた。ビデオで見た感じでは、ときに踊っているシーン以上に演技が際立っていた。中でも最後のロメオとジュリエットが、交互に相手の死を嘆き悲しむシーンでは、どちらも迫真の演技だった。ロメオはジュリエットの死に出会ったとき、実際に声を出して叫んでいた。バレエで踊り手が声をあげるのを見たのは、これが初めてだ。またジュリエットがロメオの死の悲しみにくれるシーンもかなり強烈だった。ダンサーがここまで演技することを求められているのは驚きであり、また新鮮でもあった。オペラもそうだが、バレエも演劇の一種なのだと感じた。
古いタイプの昔のバレエでは、すべてがバレエの振りの内にあって、演技もバレエの様式の中で行なわれている印象があった。悲しんでいるふり、喜んでいるふり、その「ふり」によって感情を表現するような。だから舞台上で恋人同士が、俳優のように本当にキスすることはなかった。今は、どのバレエ団も(海外では)みんな唇を実際に(ときに激しく)合わせている。キスした「ふり」というのはない。つまりダンサーも演技者なのだ。
このバレエ団の振り付けの特徴をいうと、ジュリエットを除く女性ダンサーの多くがポアントと呼ばれるトウシューズではなく、つま先で立つことのない普通のバレエシューズだったこと。このシューズの違いが踊りにダイナミックさを加えていた。ある種の開放感や男性に近い力強さが表現できていた。古典バレエでは、エスニックダンス以外は、たいてい女性はポアントをはいて踊ることになっているが、はかないことによって振り付けも大きく変わってくる。
ジュリエットの乳母役の女性もポアントではなかった。チューリッヒ・バレエ版では重要な役の一人で(通常は端役)、コミカルな踊りや仕草が素晴らしく、聴衆の笑いを誘っていた。またそのセンスのいい笑わせ方(振りと踊り)が、劇としての質を高めていた。そういえば同じプロコフィエフ『シンデレラ』にも、コミカルな役があった。シンデレラの姉二人の意地悪さが、ユーモアたっぷりに描かれている。ユーモアのセンスは、ひょっとして作曲家であるプロコフィエフの中にあったものなのだろうか。いや、でも通常の版では、乳母は年配のあまり目立たない「乳母乳母」した役だから、この『ロメオとジュリエット』は特別なのだろう。
ロイヤル・ナショナル・シアター(ロンドン)では、日本でも『シャーロック』で知られるカンバーバッチが演じるフランケンシュタイン博士の『フランケンシュタイン』を見た。オペラや演劇では、字幕のあるなしが興味を左右する。『フランケンシュタイン』はセリフは英語ではあったけれど、やはり字幕があればなお理解は進む。おそらく劇場の字幕を読むより、ビデオで字幕を読む方がずっと楽だ。
映像作品として海外の演劇を見るのは初めてなので、興味をもって最後まで見た。演出や舞台装置など、全体としてクォリティは高かったと思う。またビデオ作品としても、カメラをあちこちに配し、相当高い場所からの俯瞰カメラも含め、効果的な演出になっていたと思う。
クリーチャーと呼ばれる博士の手でつくられた生きものは、映画などで知られる人造人間の容姿とは違っていた。最初のクリーチャー誕生のシーンは、劇的で美しかった。やはり演劇で始まりのシーンは大事だ。冒頭、結構長い間、セリフのないシーンがつづく。クリーチャーは頭や顔が縫い目や傷、血だらけの醜い生きもので、言葉も知らない。奇妙な声を発するばかり。やがておかしなイントネーションの発話で少ししゃべれるようになると、「I’m different」を繰り返す。みんなから忌み嫌われ、恐れられ、排除される異質の存在、それがクリーチャーの意味なのだろう。
この三つ以外にもバレエやオペラをいくつか見た。バレエについて言うと、いま見る場合、演出や装置、衣装の魅力が作品の出来不出来に大きく関わってくるように感じた。ダンサーの踊りのレベルについては、どこのバレエ団もほとんど問題がなく、それをどうこう言うまでもないという感じ。『白鳥の湖』は確かに名作かもしれないが、作品上あまり演出に変化を加えられないせいか、多くが従来どおりのものに近く、踊りだけ見ているのはどうにも退屈してしまう。
オランダ国立オペラの『ヴォツェック』は、アルバン・ベルクの傑作と聞いていたので見ようと思った作品。第2幕まで見て、第3幕は飛ばし飛ばしみた。字幕もあったし面白くないことはないのだけれど、ストーリーや音楽にあまり魅力を感じなかった。ヴォツェックを演じていた男性歌手は、変態っぽさが出ていて面白い個性だなとは思った。オペラはいくつか条件が整わないと、なかなか楽しめないものだ。
クルターグという好きな現代作曲家がいて、90歳を超えてつくった初オペラ『勝負の終わり』(ベケットの戯曲をクルターグ自身がフランス語の台本にした)が2年前にスカラ座で初演された。それをRai Play TVというところが配信していたのを知って見にいった。音楽は面白い感じだったけれど、字幕がイタリア語のみで、ストーリーが追えず興味がつづかなかった。
日本のものでは東京バレエ団が去年、ヨーロッパで公演した『ザ・カブキ』を見た。これはずっと昔、初演のときに劇場で見ている。モーリス・ベジャールの振り付けによるもので、舞台装置はごくシンプルで、それはストーリーには合っていると思った。歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』のヨーロッパ人の解釈による演目で、男性舞踊手(特に群舞)が中心の面白いバレエだ。今は男性舞踊手のたくさん出ているバレエは多いが、この作品初演時はあまり他になかったのではないかと思う。ベジャールは才能あふれる振り付け家だ。
ところでチューリッヒ・バレエ団のあとで、バレエ『ロメオとジュリエット』を別のカンパニーにで見る機会があった。サンフランシスコ・バレエ団の『ロメオとジュリエット』は、チューリッヒ・バレエ団に比べると、従来の古典的なものに近かった。舞台美術や衣装、演技や振り付けなど全体としてよかったが、チューリッヒ・バレエのようなユニークさはなかった。
真ん中以降の幕間で、2回ほど、演出家やダンサーなどのインタビュー、リハーサルの様子、衣装や小道具担当の人の話などを集めた映像があり、これはとても新鮮だった。こういう試みは良いと思った。もしライブであれば、幕間の時間の使い方としていいし、そうでなくても、舞台芸術になじみのない人にとって、とてもいいガイドになる。
こういう試みはクラシックの演奏会でもあっていいものだ。指揮者や演奏家が演奏する曲について、作曲家について、聴衆に向かって話をする。舞台で、その場でやるのもいいし、それが難しい場合は、ビデオに撮ったものを挟み込んで演奏風景とともに映像作品にするのもいいと思う。今回の新型コロナウイルス下では、演奏家がモニターの前の聴衆に向かって話をするシーンが多々あった。
海外の演奏家や指揮者、演出家の多くはそれを心から楽しんでやっていた。慣れているのかもしれないし、演奏も含めて「音楽でコミュニケートしたい」という気持ちの現れなのかもしれない。「鍛錬を積んできたものを聴衆の前に提示する」というタイプの演奏家にとっては、あまり得意ではないことかもしれない。今回の状況下で、たくさんの演奏家の映像を見ていて、二つのタイプがありそうなことが感じられた。
以上、最近見た舞台作品のビデオ映像について感想を書いてみた。こんな機会だから見ることができたたくさんの演目。それによって知った、改めて感じた舞台作品の魅力、最近の傾向。いろいろ幅広く勉強になった。舞台一つとっても、そこには現在の社会が反映されている。素晴らしい作品を見ることで、人間の能力やアイディア、そして進歩を改めて感じることができたし、人間や人間社会の未来に希望をもつことができた。芸術はそんな役割を果たしてもいるんだな、と感じた。
*日本のバレエの中のキスシーンについて:2019年秋の新国立劇場バレエ団の『ロメオとジュリエット』公演のハイライト映像を見るかぎりでは、実際のキスはないように見えた。ロメオは海外の外国人ダンサーが演じていて、振付家も海外からのゲストだったけれど。芸術監督が日本人だからか(ただし海外のバレエ団で踊っていた人)、日本におけるバレエの演じ方の習慣なのか。熊川哲也さんのKバレエカンパニーによる『ロメオとジュリエット』は、ハイライトを見ると、ジュリエットが外国人ダンサーで、熊川さん演じるロメオと一瞬唇が合う場面があった。熊川さんは海外のバレエ団出身。