動物をパートナーにする人々、ズー
この冬の休みに衝撃的といっていい本を読んだ。濱野ちひろ『聖なるズー』、2019年度開高健ノンフィクション賞受賞作品。衝撃的な内容ではあるのだけれど、読み終わったあとには、衝撃よりもこの世界の仕組について、より深く知った気分の方が強く残った。
ズーというのは、多くの人が人間同士でしているように、動物たちとの間に関係を築き、愛を交わし合う人たちの呼び名。その行為にはセックスも含まれる。動物とのセックスなどというと、アブノーマルとか動物虐待という言葉が浮かぶかもしれない。
わたし自身、2015年に『新たな科学の視野:牛やイルカの「人権」問題』というタイトルで、動物保護の立場から、「動物を支配下に置くことのできる人間が、動物に対してセックスを強要することはレイプにあたる行為。肉体的に、心理的に、当の動物が被害を受けるであろうことは想像できる。」と書いている。
これは当時、デンマークが動物の「人権」保護の観点から、牛や馬との性行為を全面禁止する法案を可決したというニュースを読んだことへの反応だった。ヨーロッパの他の国、ドイツやイギリスなどでは法的に動物との性行為が禁止されていたため、法的には問題のないデンマークに、動物と関係を持ちたい人々が集中したことが問題になり、その結果この法律ができた。
この記事を読んだ当時は、動物と性的関係を持ちたい人々がいること、すでにそれを禁止する法律が存在すること(禁止する必要性があったということ)、デンマークがその圏外にあったことで人が押し寄せたこと、にまず驚いた。そして動物と性的関係を持つことが、イコール「虐待」や「レイプ」とみなされていたことに何の疑問も感じていなかった。
上の引用で「動物を支配下に置くことのできる人間が」と書いたが、これは動物保護を訴える人々の視点と重なっていると思う。現在もその観点から反対運動をしている団体が、ドイツにあるようだ。確かに、デンマークまで行って、動物とのセックスを実現しようという人々が、動物に対してどのような精神性を持っていたのかは不明だ。この話からは、昔の日本人男性による東南アジアへの買春ツアーのことが思い浮かぶ。
しかし『聖なるズー』で報告されているズーたちは、動物虐待やレイプとは無関係の人々だ。著者の濱野ちひろさんは、ズーたちの生態を調べるためにドイツに何回も渡って、長期取材をしている。なのでこの本でレポートされているのは、一人(日本人)を除いて、すべてドイツでのこと。
著者がズーたちに目を向けたのは、自身がパートナーから長年にわたって虐待を受けていたことが元になっている。その関係から抜け出ることのできない自分を責めつづけた著者は、関係を切る目的で一度正式に結婚し、結婚したのちに晴れて離婚している。関係を断つためには、結婚が必要だったようだ。つまりパートナーとの関係性を、一度、社会的なものとして公開する必要があった。
その著者が、虐待を受けていた自分と正面から向き合う必要を感じたことが、30代後半になってからの大学院入学とそこでの「動物との性愛の研究」へと繋がった。
『聖なるズー』を読んで世界の一端が読み解けたように感じたのは、支配と被支配の関係に気づいたからだ。これは人間社会のどこにでも存在する(動物の世界ではどうなのか。あったとしても人間が理解しているような支配・被支配ではないかもしれない)。人は意識することなく、支配、被支配の関係に陥ることがある。というより支配、被支配のない社会、支配、被支配のない人間関係は想像しにくい、とも言える。
『聖なるズー』で描かれるズーたちは、精神においても肉体においても、関係を築く動物たちとの主従関係、支配と被支配がなく、対等だ。動物と対等であるとはどういうことか。ドイツでは飼い犬が日本よりずっと厳しく調教されていることは、ミュンヘンを訪れたときの経験で知っていた。ドイツの犬は、道端でも、レストランでも、従僕のようにおとなしく声を出すこともない。伏し目がちな態度とでも言ったらいいか。一度、通りにあるカフェで、犬を連れていた人が連れていた犬をひどく叱っているのを見た。その叱り方は激しいもので、犬は絶対服従に見えた。
もしかしたらこういったドイツにおける犬の飼育の仕方と、ズーたちの存在は関係があるのかもしれない。正反対という意味で。
ズーたちにとって、身近な動物(主として大型犬)と親密な関係を結び、相手が望めば性的な関係に至ることもあるのは自然なことなのだ。『聖なるズー』の著者が取材協力を申し出た、ZETA(ゼータ)というコミュニティは、同じ志向や体験をもつ人々のネット上にできた場だ。ZETAの多くの人は、幼い頃、あるいは子ども時代に、自分と動物の特別な関係に気づいている。これは同性愛者がそうであるのと類似している。著者はドイツ滞在時に、何人かのズーの家に泊まらせてもらい、一緒に生活しながら話を聞き、彼らの生活ぶりを観察した。
ここで対等ということに戻ると、ZETAのズーたちは、パートナーである動物と完全な対等性を望んでいることがわかった。支配、被支配の関係を持たない。それはたとえば性行動に至る場合のきっかけにも現れている。濱野ちひろさんの取材によれば、何人かの人の証言として、「向こうから誘ってくる」ことで始まる、とある。
人間は家の中でも通常服を着ているが、ドイツではベッドに入るとき(特に男性の場合)、何も(下着も)着けずに寝る人がそれなりにいるそうだ。そういう無防備な状態でベッドで寝ているとき、それに飼い犬のパートナーが気づいて、ベッドに潜り込んでくるという。またそれ以外の場面でも、犬の方が寄ってきて親密な状態になりたいというアプローチを仕掛けてくることがあるそうだ。どちらの場合も、2者の関係性が完全に対等であることが前提になっている。人間の方から仕掛けることがないのは、その方法だと支配、被支配の関係と似たものになりやすいから。だからズーたちは、パートナーから誘いがあったときのみ、それに応える形で関係をもつ。
動物にそのような人間に対する性的衝動はあるのか、とか、親密になりたいという意志を発することがあるのか、またそのような動物側の態度を人間は汲みとれるものなのか、という疑問が湧くかもしれない。それに対して、ズーの人々は、動物にはそれぞれパーソナリティがあり、それを感じ、関係を築くことで細かな意志表現のニュアンスまで理解できるようになると答えている。
動物一頭一頭にパーソナリティがあることを感じる、それを感じることで理解が進み、親密な関係を結ぶことができる、という話は、わたしがこれまでに訳してきたいくつかの野生動物の観察家や研究者の報告と重なるところがある。子ども時代に庭にやってくる野鳥を、種として理解するより前に、個々の存在(パーソナリティ)として受け入れていたウィリアム・ロングもその一人だ。また『イルカ日誌』のデニース・ハージング博士も、バハマの海で25年間、身近に観察し交流してきたのは、種としてのタイセイヨウマダライルカであると同時に、個としての1頭1頭のイルカたちだ。
ズーたちの話にある「動物の方が誘ってくる」は、彼らの方が人間に好奇心を寄せてくる、というウィリアム・ロングの次のような文章とも共通性がある。
森の動物たちは、人間が彼らに興味をもつ以上に、人間に好奇心をもっている。森で静かにすわれば、ニューイングランドの山裾の町によそ者がやって来たとき程度のざわめきで済む。自分の好奇心を制御すること。そうすれば少しして、動物たちの方が好奇心に耐えられなくなる。この人間は何者か、ここで何をしているのか、見にやって来るにちがいない。そうすればこっちのもの。彼らが好奇心を満足させようとしているうちに、恐れを忘れ、あなたが見たこともないような暮らしの断片を見せてくれるだろう。(Secrets of the Woods, 1901)
ここには主従の関係がなく、人間と野生動物が限りなく対等の関係に近づいている。ロングの本は、当時のアメリカ大統領ルーズベルトによって、「科学的でない、動物を擬人化している」という理由で、学校図書館からくまなく排除されたそうだ。それに対するロングの新聞上での反論は、「腰に銃を備え、馬に乗り、ときに何人もで押しかけていては、野生動物の本当の姿はわからない」というもの。ルーズベルトは狩りを趣味にしていた。つまり動物とは支配、被支配の関係で接し、そこから動物のすべてを理解していたということになる。
ルーズベルトに限らず、人間は長い歴史の中で、動物を支配下に置く見方をしてきたのだと思う。古くは17世紀のフランスの哲学者デカルトは以下のように書いている。
動物の肉体は、機械としては比較にならないほど厳密に構成されている。その運動の適性は人間の発明したどんな機械より見事である。動物の機械は(知識に基づいて動いているのではなく)器官の仕組みに応じて動いているだけだ。獣には理性がまったくない。獣の魂は本質的に、人間の魂とはちがっていると考えるしかない。感情を示す運動は動物も示すが、これは機械でも簡単にまねできる。器官の命ずるままに動くのが動物の天性なのだということになる。(ルネ・デカルト著『方法序説』山形浩生訳からの部分要約)
また18世紀のドイツの哲学者カントはこう書いている。
動物には意識がなく、人間の目的の手段としてのみ存在する。 (秋田大学 バイオサイエンス教育・研究サポートセンター 動物実験部門のHPより要約)
カントは動物に対してだけでなく、人間(人種)に対する見方も、現代の感覚からするとひどく差別的である。
アフリカの黒人は、本性上、子供っぽさを超えるいかなる感情も持っていない。(中略)それほどこの二つの人種(註:白人と黒人)の間の差異は本質的で、心の能力に関しても肌色の差異と同じほど大きいように思われる。 (イマヌエル・カント著『美と崇高との感情性に関する観察』より要約/ウィキペディア日本語版より)
著名な、今も尊敬を受けているヨーロッパの哲学者が揃って、このような耳を疑う発言をしているのは驚きだが、当時は人間(ヨーロッパ系を祖先とする)を世界の中心に据える必要があったのだろう。
そしてその流れは今も続いている。人間中心主義といわれるものであり、ヨーロッパ系民族中心主義(「白人」という人種はないので、ここではその言葉を使わない)でもある。支配、被支配の関係性でいうと、デカルトやカントの考え方には動物との対等な関係性は存在しない。
人間中心主義に対して、生命中心主義という言葉がある。人間と人間以外の自然、生態、環境を同等に見る考え方だ。自然環境だけでなく、すべての生命、生きものが支配、被支配の関係ではなく、人間と対等な生態系の一員であるということだ。
ズーの人々が動物との関係において、支配、被支配を嫌い、対等なパートナーシップを結ぶことで関係性を築き、愛の交歓をしているとすれば、それはあらゆる人間にとって一つのお手本になるのかもしれない。人間同士の関係で、夫婦、恋人、兄弟、親子、友人の間で、どれほど相互の関係性において対等性が保たれているかは問われる問題だ。
そう考えると、『聖なるズー』の著者が、パートナーから受けた虐待の体験から、動物性愛やズーの人々のことを研究するようになった道筋は、明快で、非常に納得のいくものに見えてくる。
問題は人間が異種の動物と愛を交わすことにあるのではない。生命をもつ存在同士が、どのような関係性を築くことができるのか、という点が重要なのだと思う。