Google翻訳を試してみたら<2>
(日本語の未来、AIとともに)<1>からのつづき
日本語から英語、英語から日本語への翻訳は、本当のところどちらが難しいのだろう。
もう一度、日本語から英語のテストを別のタイプの文章で試してみよう。日本語から英語は、どんな文章でも易しいのかどうか。
Google 英訳:"When the economy is good, you can eat from first-class to second-class, third-class, and fourth-class. When the economy is normal, you can eat part of the first-class, second-class, and third-class. When the economy is bad, It means that you can eat some of the first and second parts, which means you can eat regardless of the economy. “原文:「景気がいいときというのは、一流から二流三流、四流まで食えるんです。景気がふつうのときは、一流から二流、三流の一部が食っていけるんです。そして、景気が悪いときというのは、一流と二流の一部が食っていけるということです。つまり、一流は、景気にかかわらず食っていけるんです」ほぼ日刊イトイ新聞「今日のダーリン」より
英訳文を素直に読むと、景気がいいときは、ファーストクラス以下の何か(食べ物)が食べられる、という風に受け取れる。このyou can eatというのは、日本語でいう生活できるという意味にはならないと思う。普通、you can eat these applesのように目的語に食べ物がくるはず。あるいは「敵を圧倒する、打ち負かす」というときや「使い尽くす」といった場合にもeatは使えるようだが。
ここで言う「食える」は、たとえば「you can feed yourself」あるいは「you have enough to feed yourself」のこと、あるいは「you can live」とも言えるかもしれない。「一流から二流、三流の一部が食っていける」は、「一流から二流、及び三流の一部の人が」という意味だから、if you are from a first-class professional to the second-class and part of the third-class professionalとなるだろうか。
part ofがつくのはsecondやthird、fourthであって、firstにsome of とか part ofがかかってしまうと、この文の意図はまったく伝わらない。「景気が悪いときは」以下の文章は英訳では矛盾が起きている。ここは日本語の方を「一流と、二流の一部が」とすればうまく英訳できるのではないか。あ、やってみたらダメだった。読点を入れても、Google翻訳は、
When the economy is bad, you can eat some of the first-class and some of the second-class.
と出してくる。
「一流の人と、二流の一部が」とすると初めて、
When the economy is bad, you can eat top-notch people and part of the second-class.
としてくれる。
この文章は日本語として、日本語人が読んだとき、わかりにくい文章ではない。むしろわかりやすい文章かもしれない。しかしそれが英文に訳すというプロセスでは、訳しにくい、意図の伝わりにくい文章になってしまう。
この辺が英訳を意識した日本語文を書く場合の、ポイントになってくるかもしれない。
もう一つ、文学作品の翻訳を試してみよう。
Google 英訳:It was three years ago in the summer. I carried Ryuk Satsuk on my back like a person, and tried to climb Mt. Hotaka from a hot spring inn in that Kamikochi. As you know, there is no way back to Azusa River to climb Mount Hotaka. I had climbed Mt. Yariga as well as Mt. Hotaka before, so I climbed the valley of Azusa River where the morning fog fell without getting a guide.原文:三年前の夏のことです。僕は人並みにリユツク・サツクを背負ひ、あの上高地の温泉宿から穂高山へ登らうとしました。穂高山へ登るのには御承知の通り梓川を溯る外はありません。僕は前に穂高山は勿論、槍ヶ岳にも登つてゐましたから、朝霧の下りた梓川の谷を案内者もつれずに登つて行きました。芥川龍之介「河童」より
It was the summer three years ago. の方がすっきりするような気がする。おそらく「三年前」が冒頭にきているので、重要なワードと見たのかもしれない。Ryuk Satsukは綴りとしてはrucksack、あるいはbackpackでもいいかもしれない。like a personとは「人並みに」の訳。like othersとかlike everyone elseとか?
in that Kamikochiのthatは何を意味しているのだろう。日本語で「あの上高地」となっているからだが、それを説明するような文章は、これ以前の文にはない。景勝地として有名なあの上高地と言っているだけなのか、他に何か意味があるのかはっきりしない。これは日本文のせい。
「梓川を溯る」はback to ではなく、up the Azusa Riverまたはgoing upstream on Azusa RIverの方がよさそう。槍ヶ岳がMt. Yarigaになっているけれど、これはMt.をつけたのでtakeを外したのかもしれない。Mt.Fujisanのようにならないようにと。しかしここはYarigatakeでないと、固有名詞だから。こういった言葉の慣習的な使用法、ケースごとに対処が変わってくる変換にはAIはなかなか対応しづらいようだ。
では普通ではない文章、詩のようなものはどうか。
Google 英訳:How do you do what you doBlow the blue walnutBlow the sour or rinHow do you do what you do
原文:
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
宮沢賢治「風の又三郎」より
あ、これは面白いかも?!
「どう」がhow do you doになってるのだろうけれど、「どう」と「do」が音的に似ているせいで面白い効果を生んでいる。意味のない言葉(擬音)を意味あるようにしている。もうちょっとこれをリズミックにして、
How do you do you what do you do
にしたらどうだろう。sour or rinは、sour karinでいいかなと思うけれど、なぜor rinとなったのかは不明。「青いくるみ」はblueではなくてgreen(熟していない)の方がよさそう。
そのつづき。
Google 英訳:There was a small school on the shore of Tanigawa.There was only one classroom, but there were no third grade students, and there were everyone from one to six years. The playground was almost like a tennis court, but right behind was a beautiful grass mountain with chestnut trees, and there was a rock hole in the corner of the playground that blew out the water.
原文:
谷川の岸に小さな学校がありました。
教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。
宮沢賢治の文章は、翻訳に適しているように見える。ただ「たった一つでしたが」の「が」をbutにしてしまうと、意味が変わってきてしまう。ここはたとえば、
… and though there were no third grade students, there were everyone from …とすればよさそう。ただ「一年から六年まで」だと訳語がyearsになってしまうので、日本語の方を「一年生から六年生まで」として訳し直すと、there were everyone from first grade to sixth grade.と訳してくれる。機械翻訳は意味をとって訳しているわけではないので、こういうことはよく起きる。
rock holeという言い方があるかどうか。a hole of the rockとか?
…there was a hole of the rock that blew out the cold water in the corner of the playground.
の語順の方がいいような気がする。でも印象として、宮沢賢治の文章は、機械翻訳の読み取りに比較的あっているかもしれない。
こうして見てくると、日本語を英語に、の場合も元テキストの書き方によって、成果はかなり違ってきそうだ。
このことは今後の日本語の書き方のスタンダードとして、ちょっとしたヒントとなるかもしれない。つまり日本語として読みやすく、意味がとおり、意図や感情が伝わるというだけでなく、他の言葉に訳されるときのことを考えて、日本語を書くということだ。そのような日本語を書くと、ときに日本語としては「美しくない」あるいは「もたもたした」表現になることもあるだろう。たとえばあらゆる文章に主語を入れるなど。日本語だけのことを考えれば、主語を省いても文脈から誰のことを指しているかわかっても、英訳するとなると、それを入れてやらないとAIが判断できない。
AIが理解しやすい日本語をしゃべる、というのは、たしか演出家の平田オリザさんも言っていた気がする。日本人にとって言わなくてもわかることをわざわざ書くのは、粋じゃない、無粋である、という考えもあると思う。ただ今の世の中、いろいろなことが地球的な広がりを見せている時代に、日本語は日本人のものだから、という説はおそらく通りにくい。
日本語は、日本人専用のものではない。誰がつかってもいい。誰が習ってもいい。その点では英語と同じだ。日本語が翻訳しやすいような、AIが理解しやすいような、つまり万人にわかる言葉に変わっていくことは悪いことではないと思う。
言葉にとって「美」というものがあるとしたら、それはなんだろう。言おうとしていることの意図がスピーディに、ストレートに、ある感覚(感興、臨場感)をともなって伝わることは美しさの一つではないか。リズムというものもあると思うが、ある程度、慣れの問題かもしれない。ここでは「日本らしさ」があるかどうかは、あまり問題にならないだろう。「らしさ」などというものは、時間の経過で変化する。
Google翻訳をつかって、日本語の書き方を勉強するのは一つの方法かもしれない。論理的に破綻がなく、誰にもわかりやすい、簡潔で平明な言葉づかいの文章。宮沢賢治の文章のように、初めての人に初めてのことを伝えるような表現、フラットでオープンな言葉。自分の書いた日本語を英訳してみて、おおよそうまく英訳できていれば、新しい日本語としては合格なのではないだろうか。
AIの言語能力というのはなかなか面白い。Chromeで英文のメール(Gmail)を書いていると、書く先々で言葉を予測して提示してくる。たとえば、
I will let you know when the article と書いてところで、 is publishedが出てくる。それでOKであればタブで決定。予測違いであれば自分でその先を書く。綴りを間違えたり、前置詞が抜けているときも教えてくれる。
いつだったか、アメリカ人の友人にメールを書いているとき、思わぬ提案があって驚いたことがある。そのメール内ではひとことも書いていないのに、たしか「book」だったか特定の単語を提案してきた。「本は届いたか?」のような文章で。おそらくそのメール内にはないけれど、同じスレッドのメールのどこかに「本を送った」という文章があって、そこから類推したのだと思う。ちょっと驚いた。
Google翻訳も含め、AIは人間の言語能力を強化してくれる。まだまだのところがあっても、AIとともに学びあって、精度を高めていくのは悪くない。AIに英語の間違いを直してもらったり、こちらがAIに人の名前の表記を教えたりと。そうやって協力しあって、社会をよくしていく、住みやすいものにしていくのが、人間とAIとの正しい関係なのかもしれない。